コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

モンロー・ソールズベリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Monroe Salisbury
モンロー・ソールズベリー
モンロー・ソールズベリー
本名 オレンジ・ソールズベリー・キャッシュ(Orange Salisbury Cash)
生年月日 (1876-05-08) 1876年5月8日
没年月日 (1935-08-06) 1935年8月6日(59歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州エリー郡アンゴラ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナーディーノ
職業 俳優
ジャンル 舞台演劇、サイレント映画
活動期間 1898年 - 1930年
テンプレートを表示

モンロー・ソールズベリーMonroe Salisbury、本名:オレンジ・ソールズベリー・キャッシュOrange Salisbury Cash)、1876年5月8日 - 1935年8月6日)は、アメリカ合衆国俳優である[1]

日本ではモンロー・サリスベリーとも表記された[2]

人物・来歴

[編集]

1876年(明治9年)5月8日ニューヨーク州エリー郡アンゴラに生まれる。

1898年(明治31年)、劇壇にデビューし、1903年(明治36年)には、アンヘル・ギメラの戯曲の舞台 Marta of the Lowlands に主演している[3]

1913年(大正2年)にジェシー・L・ラスキーオスカー・アッフェルセシル・B・デミルとともに設立したジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニーに参加、1914年(大正3年)に同社が製作した長篇劇映画『スコウ・マン』にノンクレジットで出演し、同年2月15日に公開され、満36歳で映画界にデビューした[1]。1915年(大正4年)には同社を離れる[1]

1917年(大正6年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、入社第1作は、同社の子会社・ブルーバード映画製作、ルース・クリフォード主演、ルパート・ジュリアン監督の『谷の小家』であった[1]。同年には同様のジュリアン監督と主演のクリフォードの相手役として『旅の女』、『長恨歌』に出演し、翌1918年(大正7年)から、『森の朝』、『赤き赤き心』、『無言の罪』、『』、『熱血の権威』、『悪魔バーチース』、『強者の威力』、『長者海賊』、『屍の輝き』に主演[1]、これらは日本でも公開された[4]。1921年(大正10年)、ユニヴァーサルを去り、モンロー・ソールズベリー・プロダクションズを設立、第1作『未開の人』を製作・主演し、同作は、同年4月30日に公開された[1]。同社は製作を続けられず、次作はウェスト・コースト・フィルムズが1922年(大正11年)に製作した、ジャック・ジャッカード監督による主演作『雪中の血路』で、同作を最後に映画界から一旦退いた[1]

1929年(昭和4年)、レスリー・ピアース監督の Her Husband's Women に客演してカムバック、翌1930年(昭和5年)、レイ・テイラー監督の The Jade Boxを最後に、本格的に映画界を引退した[1]

1935年(昭和10年)8月6日カリフォルニア州サンバーナーディーノで転落による頭蓋骨骨折のため死去した[1]。満59歳没。アンジェラス=ロズデイル墓地に眠る[5]

フィルモグラフィ

[編集]

すべて出演作である[1]

1910年 - 1922年

[編集]
飢たる眼』 (1918)

1929年のカムバック

[編集]

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j Monroe Salisbury, Internet Movie Database (英語), 2010年5月20日閲覧。
  2. ^ モンロー・サリスベリー、allcinema ONLINE, 2010年5月20日閲覧。
  3. ^ Monroe Salisbury, Internet Broadway Database (英語), 2010年5月20日閲覧。
  4. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.
  5. ^ Monroe Salisbury, Find A Grave (英語), 2010年5月20日閲覧。

関連事項

[編集]

外部リンク

[編集]