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モンテギュ (ヴァンデ県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Montaigu


地図
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏
(département) ヴァンデ県
(arrondissement) ラ・ロッシュ=シュル=ヨン郡
小郡 (canton) モンテギュ小郡
INSEEコード 85146
郵便番号 85600
市長任期 アントワーヌ・シェロー
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) Communauté de communes Terres-de-Montaigu
人口動態
人口 5118人
2013年
人口密度 1689人/km2
住民の呼称 Montacutain, Montaigusien
地理
座標 北緯46度58分25秒 西経1度18分31秒 / 北緯46.9736111111度 西経1.30861111111度 / 46.9736111111; -1.30861111111座標: 北緯46度58分25秒 西経1度18分31秒 / 北緯46.9736111111度 西経1.30861111111度 / 46.9736111111; -1.30861111111
標高 平均:m
最低:23m
最高:57m
面積 3.03km2
Montaiguの位置(フランス内)
Montaigu
Montaigu
公式サイト Site officiel
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モンテギュMontaigu)は、フランスペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ヴァンデ県の旧コミューン

地理

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県北東部にあり、かつてポワトゥーの辺境地帯と呼ばれた地に位置する。ナントラ・ロッシュ=シュル=ヨンショレとはいずれも35kmほどと等距離である。モンテギュはブルターニュアンジュー、ポワトゥーの歴史的な交差地点である。ナント-ラ・ロシェル間を走る南北道路県道137号線、ショレ-サン・ジャン・ド・モンを走る東西道路県道753号線の交差点となっており、なおかつ、北東のクリソンから南西のラ・ロッシュ=シュル=ヨンを結ぶ県道763号線に接続されている。

わずか3平方kmの面積しか持たないモンテギュはヴァンデ県で3番目に小さなコミューンであり、1平方kmあたりの人口密度が約1700人と最も高い。

歴史的に、モンテギュはメーヌ川(メーヌ=エ=ロワール県の名称となっているメーヌ川とは異なる川である)とアソン川の合流地点から北東部にある城を中心として発展した。このメーヌ川は南から北に流れ、およそ30km下流でセーヴル・ナンテーズ川に注ぐ。コミューンはロワール川流域に位置している。

歴史

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モンテギュという名称の元となった Mons Acutus というラテン語名から、この定住地は4世紀頃のガロ=ローマ時代にさかのぼることが推測される[P 1]。9世紀の終わりに近郊の街デュリヴム(Durivum。現在のサン・ジョルジュ・ド・モンテギュ)がメーヌ川からやってきたヴァイキングに略奪され、住民たちはやや北に位置するメーヌ川とアソン川の合流地点の、防備可能な岩盤上に逃れることを余儀なくされた[P 2]

中世

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その後、12世紀終わりには街の南のサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に位置する司祭館の設立文書に、モーリス2世を含むモンテギュ領主の系譜が認められる[P 3]。領主はアンリ・ド・プランタジュネ(イングランドヘンリー2世)と並んで称された。13世紀初頭にモンテギュは、ポワトゥー同様にフランス王の領土となった。百年戦争になると、1360年のブレティニーの和議でポワトゥーの領有権がイングランド王に移り、イングランドの守備隊がモンテギュに移ってくるが、イングランドがクリソンベルトラン・デュ・ゲクランに敗北したため1373年に廃止されている[P 4][1]。モンテギュ領主ジャン3世・ド・アルプダーヌ(妻はシャルル6世の庶子マルグリット)は、1429年のオルレアン解放時にジャンヌ・ダルク側についていた[2]。彼は1438年に町に神学校を創設している[P 5]。彼はブルターニュ公フランソワ2世とは敵対したので、ルイ11世はモンテギュ領主を支え、1468年にはこの地を訪問している。彼は要塞を築くことを奨励し、壁を強化するために1473年に一時的にモンテギュを取得している。1480年1月、王は特許状によってモンテギュに王室の席を置くよう命じた[3]

近代

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1517年、男爵領に昇格したモンテギュは、ラ・トレモワイユ家のものとなっていた。ジャン・カルヴァンポワティエ訪問に続いて、宗教改革はポワトゥーに広がりモンテギュに達した。ユグノー戦争の間、町は幾度もカトリックとプロテスタントの間を行き来した。特に1580年のアグリッパ・ドービニェがかかわった包囲戦や、1588年のアンリ・ド・ナヴァール(のちのアンリ4世)の介入が知られる[P 6]。こうした衝突の後、城の要塞の解体が決定した。プロテスタント信仰の礼拝は、1685年にナントの勅令が廃止されても、17世紀の間モンテギュで行われていた。新たに男爵となったガブリエル・ド・マシュクール自身がユグノーであったためである。1696年、モンテギュは侯爵領に格上げされ、同時期に当代の当主がカトリックに改宗した。18世紀半ばのモンテギュには、1500人の住民のために300軒の住宅があった。1772年以降、町はブルターニュとポワトゥーの間に広がる辺境コミューンの首府として機能するようになった(モンテギュは辺境コミューンの一部ではなかったが)[4]。最後のモンテギュ領主はジャック・ルクレール・ド・ジュイニェ(fr)である。彼は王の軍の中将で、元駐ロシア・フランス大使であった。彼は辺境の貴族議員に選ばれ、1789年の三部会に選出された[P 7]

革命と戦争

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フランス革命初期、8月4日の夜(fr)に国民議会が身分に由来する諸特権廃止を宣言すると、モンテギュはこれを祝福した低ポワトゥーの自治体の1つとなった[P 8]。しかし、1791年の聖職者民事基本法、1793年2月に発生した国民皆兵暴動で、同年3月上旬にヴァンデ戦争が始まり、モンテギュに3月13日に達した。周辺のコミューンからやってきた一団が町を掌握し、多くの共和派を殺害したのである(ヴァンデ戦争の間、モンテギュ師団はピエール・ルゾー将軍が指揮していた。彼はシャレットの副官の一人だった)[P 9]。モンテギュは、9月16日に、何百人ものヴァンデ住民を殺害した共和国側によって奪還された。しかし9月21日にヴァンデ軍が取り返して略奪と虐殺が行われた[P 10]。町が最終的に共和国軍によって制圧されたのは9月30日、クレベールによってである[P 11]。サン・モーリスの教会参事会員である司祭は処刑され、海軍提督デュシャフォーは逮捕されナントに投獄されて死んだ。シャレットは1796年3月まで戦い続け、シャボテリーの森の近く(現在のモントレヴェール)で拘束され、モンテギュからナントに護送され処刑された[P 12]。1799年10月、シャレットの後継者シュザネは、ラ・ロッシュ・サンタンドレとともにモンテギュの町を攻略しようとしたが、撃退され、この地方での軍事活動に終止符が打たれた。

現代

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モンテギュは1790年から1795年まで、郡庁所在地だった。その後1800年から1810年まで小郡庁所在地だった。1808年8月には、バイヨンヌから戻る途上のナポレオン1世ジョゼフィーヌがモンテギュを通過している。

2019年1月1日、周辺コミューンと合併し、コミューン・ヌーヴェル(fr。地方自治体改革の2010年12月16日施行の2010-1563法第21条による、合併によって新設されたコミューン)のモンテギュ=ヴァンデとなった。

人口統計

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1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2008年 2013年
2580 3279 4797 4661 4323 4708 4959 5118

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[5]、2004年以降INSEE[6][7]

出身者

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姉妹都市

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脚注

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  1. ^ Bulletin du District de Montaigu, n°3, décembre 1971, p.33
  2. ^ http://montaiguvendee.fr/cms/uploads/pdf/39%20communes/Montaigu/Montaigu-toponymes/Montaigu_St-Maurice_collegiale.pdf
  3. ^ https://books.google.fr/books?id=j3kUAQAAMAAJ&pg=PA529 Lettres patentes de Louis XI, Plessis-du-Parc-lèz-Tours, janvier 1480 (1479 avant Pâques)
  4. ^ Goupilleau de Montaigu, Mireille Bossis et Philippe Bossis, p.31
  5. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=23091
  6. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
  7. ^ http://www.insee.fr

ノート

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  • Georges Laronze, Montaigu, Ville d’histoire (IVe-XXe siècle),‎
  1. ^ p. 7
  2. ^ p. 8
  3. ^ p. 10
  4. ^ p. 17
  5. ^ p. 19
  6. ^ p. 30
  7. ^ p. 49
  8. ^ p. 69
  9. ^ p. 72
  10. ^ p. 78
  11. ^ p. 80
  12. ^ p. 84