コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

モデスト・ブロコス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モデスト・ブロコス
Modesto Brocos
自画像 (1882年)
生誕 1852年2月9日
サンティアゴ・デ・コンポステーラ
死没 1936年11月28日
リオデジャネイロ
テンプレートを表示

モデスト・ブロコス(Modesto Brocos y Gómez、1852年2月9日1936年11月28日)は、スペイン生まれの画家、版画家である。ブラジルに帰化し、国立美術アカデミーの教授を務めた。

略歴

[編集]

スペイン北部、ガリシア州サンティアゴ・デ・コンポステーラの芸術好きの家庭に生まれた。祖父も父親も著述家で、兄のイシドロ・ブロコス(Isidoro Brocos Gómez: 1841-1914)は彫刻家になった。ア・コルーニャの美術学校で教える兄から美術を学んだ[1]。18歳で美術学校を卒業した後、アルゼンチンに移り仕事を探したが、成功しなかった。2年後、ブラジルに移り、リオデジャネイロの穏健な共和主義の週刊雑誌「O Mequetrefe」のイラストレーターの仕事に就いた。雑誌社からの給料を学資にして、リオデジャネイロのブラジル帝国美術アカデミー(Academia Imperial de Belas Artes)に入学し、ビクトル・メイレレスジョアン・ゼフェリーノ・ダ・コスタに学んだ[2]。2年間、リオデジャネイロで学んだ後、ヨーロッパに戻り、パリ国立高等美術学校アンリ・ラマンに学ぶが、その内容には不満で、マドリード王立サン・フェルナンド美術アカデミーでも、しばらく学んだ後、1883年からローマに滞在した。故郷のア・コルーニャ市から研究員の資格を得た。

1890年までに作品を展覧会に出展し、国立美術学校(Escola Nacional de Belas Artes)に改名された、リオデジャネイロの美術学校の校長のロドルフォ・ベルナルデリ(Rodolfo Bernardelli:1852-1931)から教授に招聘された。ブラジルに帰化し、人物画の教授に就任し、その職を生涯続けた[2]。その間、故郷のサンティアゴ・デ・コンポステーラの教会の装飾の仕事をするために短期間、スペインに帰国した[1]。美術に関する著書も執筆した。

作品

[編集]

著書

[編集]
  • A questão do ensino de Bellas (美術教育の問題点)1915. Catalog entry @ the Biblioteca Central [1]
  • Viaje a Marte(火星への旅), Edit. Arte y Letras, 1930 @ Google Books [2]
  • Retórica dos pintores(画家のレトリック), Typ. D’A Industria do Livro, 1933

参考文献

[編集]
  1. ^ a b DezenoveVinte: Modesto Brocos: A Retórica dos Pintores, by José Luiz da Silva Nunes.
  2. ^ a b Biography @ the Enciclopédia Itaú Cultural.

関連文献

[編集]
  • Francisco Pablos, Pintores gallegos del novecientos : Serafín Avendaño, Modesto Brocos, Roman Navarro ..., A Coruña, Fundación Pedro Barrié de la Maza : Editorial Atlántico, 1981 ISBN 84-85858-06-9