メホ・コドロ
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名前 | ||||||
本名 |
メフメド・コドロ Mehmed Kodro | |||||
ラテン文字 | Meho Kodro | |||||
キリル文字 | Мехо Кодро | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | |||||
生年月日 | 1967年1月12日(57歳) | |||||
出身地 | ユーゴスラビア社会主義連邦共和国モスタル | |||||
身長 | 188cm | |||||
体重 | 81kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1991 | ヴェレジュ・モスタル | 129 | (48) | |||
1991-1995 | レアル・ソシエダ | 129 | (73) | |||
1995-1996 | バルセロナ | 32 | (9) | |||
1996-1999 | テネリフェ | 72 | (18) | |||
1999-2000 | アラベス | 30 | (5) | |||
2000-2001 | マッカビ・テル・アヴィヴ | 6 | (1) | |||
通算 | 398 | (154) | ||||
代表歴 | ||||||
1991-1992 | ユーゴスラビア | 2 | (0) | |||
1996-2000 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | 13 | (3) | |||
監督歴 | ||||||
2006 | レアル・ソシエダ (コーチ) | |||||
2008 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | |||||
2008-2010 | レアル・ソシエダ (ユース) | |||||
2010-2013 | レアル・ソシエダB | |||||
2014-2015 | サラエヴォ | |||||
2016-2018 | セルヴェット | |||||
2020-2022 | スタッド・ローザンヌ・ウシー | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
メホ・コドロ(Mehmed "Meho" Kodro , 1967年1月12日 - )は、ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)・モスタル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワードであり、元ユーゴスラビア代表及び元ボスニア・ヘルツェゴビナ代表。現在はチャレンジリーグ・FCスタッド・ローザンヌ・ウシーの監督を務めている。
1990年代に活躍し、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー史上最高のストライカーと称された。息子のケナン・コドロもサッカー選手であり、同じくフォワードを務めている。
キャリア
[編集]地元のクラブであるFKヴェレジュ・モスタルにて1985年にキャリアデビューを果たした。 1991年ユーゴスラビア紛争の影響もあり、リーガ・エスパニョーラのレアル・ソシエダへ移籍。恵まれた体格を活かしたプレーにテクニックを兼備し、移籍1年目から10ゴールを挙げた。1993-94シーズンには23ゴールを挙げ、この活躍を目にしたビッグクラブからオファーが殺到した。しかし、コドロはラ・レアルとの契約を延長し、残留する。1994-1995シーズンもヴァレリー・カルピンらのアシストからコンスタントに得点を挙げ、イバン・サモラーノに次ぐ、リーグ2位の25ゴールを記録した。
4シーズンに渡り2桁ゴールを挙げ、リーガエスパニョーラ屈指のストライカーとなったコドロは、1995-96シーズン開幕前にヨハン・クライフ率いるFCバルセロナに移籍。新加入のルイス・フィーゴ、ロベルト・プロシネツキ、ゲオルゲ・ポペスクらと共に第2期ドリーム・チームを構成すると期待された。しかし、新加入の選手が多かったバルセロナはシステムが機能せず、コドロ自身も9ゴールと活躍することができなかった。
シーズン終了後、バルセロナはヨハン・クライフからボビー・ロブソンに政権が交代。コドロ自身もバルセロナからCDテネリフェにフアン・アントニオ・ピッツィと入れ替わる形で移籍した。1997-98シーズンにロイ・マカーイとのコンビで12ゴールを挙げるも、ラ・レアルに在籍していたころの活躍をすることはできなかった。
その後、1999-00シーズンにはデポルティーボ・アラベスに移籍し、2001-02シーズンにイスラエルのマッカビ・テルアビブにて現役を引退した。
代表
[編集]ユーゴスラビア代表として2試合に出場。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表としては紛争の影響で13試合に出場し3ゴールを挙げた。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表としてのキャップはわずかであるが、独立間もないボスニア・ヘルツェゴビナ代表黎明期にあって唯一のワールドクラスであり、主将、大黒柱としてチームを支えた。
監督成績
[編集]- 2021年3月19日現在
クラブ | 国 | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
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試 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 | ||||
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表 | 2008年1月5日 | 2008年5月17日 | 2 | 0 | 1 | 1 | 0.00 | |
レアル・ソシエダB | 2010年7月1日 | 2013年6月30日 | 113 | 35 | 37 | 41 | 30.97 | |
サラエヴォ | 2014年9月26日 | 2015年4日21 | 17 | 11 | 4 | 2 | 64.71 | |
セルヴェット | 2016年12月30日 | 2018年3月8日 | 42 | 24 | 11 | 7 | 57.14 | |
スタッド・ローザンヌ・ウシー | 2020年6月4日 | 27 | 11 | 10 | 6 | 40.74 | ||
合計 | 201 | 81 | 63 | 57 | 40.30 |
タイトル
[編集]選手時代
[編集]- FKヴェレジュ・モスタル
- ユーゴスラビアカップ:1回(1985-86)
- マッカビ・テルアビブFC
- グヴィア・ハメディナ:1回(2000-01)
- 個人
- ボスニア年間最優秀選手賞:2回(1996、1997)