コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

メネリク1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アクスムの教会にある絵画

メネリク1世Menelik I、エブナ・ラ・ハキム: Ebna la-Hakim, "Son of the Wise", 知恵の息子)は、エチオピアを統治した初代のとされる伝説上の人物。

概要

[編集]

メネリク1世は、古代イスラエルソロモンシバの女王マーケダーの間に生まれた息子で、紀元前10世紀頃のエチオピアを統治したとされている。現エリトリアハマシアン英語版で誕生し[注 1]、成長してエルサレムを訪問すると父ソロモン王に歓待される。ソロモン王からイスラエルの王位を継ぐよう説得されるが断り[3]ソロモン神殿にあった「契約の箱聖櫃)」[注 2]をエチオピアへ運び去った[注 3]。その後、メネリク1世は母の女王マーケダーから王位を継ぎ、エチオピアはダビデ王直系の男子相続による新たなイスラエル王国として創始された、とされる[9]

エチオピア地域で紀元前5世紀に興ったアクスム王国13世紀に興ったエチオピア帝国(ソロモン朝)のいずれの王もメネリク1世の直系の子孫を名乗り、その地位の正当性の主張に利用した。とりわけイクノ・アムラクによって1270年に打ち建てられたエチオピア帝国では、国家事業としてエチオピア版『古事記』ともいうべき『ケブラ・ナガスト』[注 4]を作らせたとされる[注 5]。上で述べたメネリク1世の経歴はその『ケプラ・ナガスト』の記述に基づく。もちろん伝説であり、歴史的事実として確定したものではない。旧約聖書に記されたシバの女王についてはその実在に懐疑的な学説も強く、またその出自についてもエチオピア説(紅海の南アフリカ側)とイエメン説(紅海のアラビア半島側)がある上に、双方とも考古学的な裏付けが取れておらず、いずれも仮説にすぎない[12]。さらに旧約聖書には、ソロモン王とシバの女王の間に子供が生まれたという記述は存在しない。

最古の王家

[編集]

メネリク1世を始祖とし、1974年ハイレ・セラシエ1世廃位に至るエチオピア帝国の王朝は、「ソロモン王朝」として紀元前10世紀から3000年間存続した最古の王朝だと主張されることがある[要出典]

ただし、あくまで伝説上のものであり、歴史的事実として確認できるエチオピア皇帝家の人物は13世紀のエチオピア帝国の初代皇帝イクノ・アムラクからである。また、このエチオピア皇帝家は近代において断絶した時期があり、皇帝に実権がなく臣下が実権を握っていた時期もある[要出典]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 記事本文の「現エリトリアのハマシアンで誕生」は当記事の翻訳底本となった英語版ウィキペディアの記述(出典不詳)による[1]。『ケブラ・ナガスト』には、女王は「ソロモンの許を退出してから9カ月と5日後にバーラー・ザディーサールヤーという町」で出産した、とある[2]
  2. ^ 蔀勇造 訳注『ケブラ・ナガスト』に「神の掟の箱であるシオン」と記す[4]。ゲエズ語では「ツェヨーン」だが、慣用に従い同訳書では「シオン」と訳されている[5]。多義的な語であり、同書の訳注と解説を参照せよ[5][6]
  3. ^ 正確には、契約の箱(シオン)を神殿から盗み出しエチオピアへと運んだのはメネリク1世ではなく、ソロモン王がメネリク1世に仕えてエチオピアへ向かうよう命じたイスラエルの貴顕の子弟たち[7]である[8]
  4. ^ 蔀勇造 訳注『ケブラ・ナガスト : 聖櫃の将来とエチオピアの栄光』(平凡社東洋文庫)としてゲエズ語(古代エチオピア語)原典からの日本語訳がある。副題にある「将来」は“招来”の意味。参考文献節参照。
  5. ^ シバの女王をエチオピアの女王に比定し、シバの女王とソロモン王の間に生まれたメネリク1世をエチオピア初代の王とする伝説は、エチオピア正教会から公認され、エチオピア帝国が1974年9月のエチオピア革命で消滅するまでその憲法に明記されており、エチオピアのいわば民族的イデオロギーとなっていた[9]。ただし、学問上は、『ケブラ・ナガスト』は必ずしも13世紀に作られた書物とは考えられていない。専門家による成立年代の推定には大きく分けて、13世紀以降すなわちエチオピア帝国成立以降を採る諸学説(17世紀初めの成立とする説もある)と、6–7世紀の成立とする学説の2派がある[10]。アラビア古代史、インド洋交易史を専門とする蔀勇造は諸説を整理した上で本書の記述を検討し、登場人物たちが移動する地理的空間の特徴から、その中核部分は南アラビア(現在のイエメン地域)からエチオピアのアクスム王国の勢力が退けられ、その支配権が完全にホスロー1世サーサーン朝ペルシア帝国に移る西暦570–575年よりも以前に成立していたはずだと結論している[11]

出典

[編集]
  1. ^ 英語版ウィキペディア「Menelik I」項、2007-07-05 15:04 (UTC) の版
  2. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 87–88, 「第32章 女王はどのように出産し故国に帰ったか」.
  3. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 101–109, 「第36章 ソロモン王が彼の息子と会見した条」「第37章 ソロモンが彼の息子に質問する条」.
  4. ^ 蔀勇造 訳注 2020, p. 16, 「第1章 王達の栄光について」.
  5. ^ a b 蔀勇造 訳注 2020, pp. 17–18, 「第1章 王達の栄光について」.
  6. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 448–453, 「解説(三. 本書に関わる諸問題)」.
  7. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 109–111, 「第38章 王が息子を彼らの息子達と共に送ることを企てる条」.
  8. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 154–166, 「第53章 〈車〉がエチオピアに与えられた条」「第54章 ダビデが預言してシオンを拝受する条」「第55章 エチオピアの人々の喜びに浸った様について」.
  9. ^ a b 蔀勇造 訳注 2020, p. 422, 「解説」.
  10. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 432–439, 「解説(二. 作者と著作年代)」.
  11. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 166, 439–443, 「解説(二. 作者と著作年代)」.
  12. ^ 蔀勇造 訳注 2020, pp. 445–448, 「解説(三. 本書に関わる諸問題)」.

参考文献

[編集]
  • 蔀 勇造 訳『ケブラ・ナガスト : 聖櫃の将来とエチオピアの栄光』平凡社東洋文庫〉、2020年10月。ISBN 978-4-582-80904-6 
ゲエズ語著作『ケブラ・ナガスト』(“王たちの栄光”の意、作者不詳)の全訳、註釈および解説。

関連項目

[編集]