メアリー・オブ・グレートブリテン
マリア・フォン・ハノーファー Maria von Hannover | |
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ヘッセン=カッセル方伯妃 | |
ゲオルク・デマレによる肖像画、1752年。 | |
在位 | 1760年 - 1772年 |
別称号 | グレートブリテン王女 |
出生 |
1723年3月5日 グレートブリテン王国、 イングランド、ロンドン、レスター・ハウス |
死去 |
1772年1月14日(48歳没) 神聖ローマ帝国 ヘッセン=カッセル方伯領、ハーナウ |
埋葬 |
1772年2月1日 神聖ローマ帝国 ヘッセン=カッセル方伯領、ハーナウ、聖マリア教会 |
配偶者 | ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世 |
子女 |
ヴィルヘルム ヴィルヘルム1世 カール フリードリヒ |
家名 | ハノーヴァー家 |
父親 | グレートブリテン王ジョージ2世 |
母親 | キャロライン・オブ・アーンズバック |
宗教 | プロテスタント |
メアリー・オブ・グレートブリテン(Mary of Great Britain, 1723年3月5日 - 1772年1月14日)は、イギリス国王ジョージ2世の娘、ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の最初の妃。ドイツ語名マリア・フォン・ハノーファー(Maria von Hannover)。
生涯
[編集]イギリス王太子ジョージ(後のジョージ2世)と妃キャロラインの娘として、1723年3月5日(グレゴリオ暦)にロンドンのレスター・ハウスで誕生した[1]。
1740年5月8日に代理人を立てて、ヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒと結婚、おそらく6月末にカッセルで改めて本人による結婚式を挙げた[1]。同年10月の舞踏会でメアリーを見かけた作家ヤーコプ・フリードリヒ・フォン・ビールフェルトはメアリーを「背が高く、画家のモデルに適する程度のいい見た目」と形容した[1]。ホレス・ウォルポールはフリードリヒを「粗野な畜生」と形容し[1]、1746年末にはメアリーがカッセルで受けた虐待から回復するためにイギリスで休養した[2]。
1749年に夫が死後にカトリックの愛人と再会できると考え、秘密裏にカトリックに改宗した[2]。1754年に改宗が明らかになると、メアリーはそれを口実に1755年2月に別居した[2]。ジョージ2世はメアリーに帰国を促したが、メアリーは下の息子とともにいたいと考え、義父ヴィルヘルム8世の支援を受けて息子たちとともにハーナウに住んだ[1]。七年戦争の勃発により、1757年にフランスがヘッセン=カッセル方伯領に侵攻すると、メアリーは義父とともにハンブルクに逃亡したが、一時窮乏した状況に陥ったため、イギリスでは首相大ピットが議会の開会を待たずに援助金として2万ポンド送金した[1]。メアリーは翌年には終身の年金5,000ポンドを与えられた[1]。
画像外部リンク | |
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メアリーが1763年に発行した硬貨(表) | |
メアリーが1763年に発行した硬貨(裏) |
1760年2月1日にヴィルヘルム8世が死去すると、夫が方伯位を継ぎ、メアリーも方伯妃になった[1]。夫は長男ヴィルヘルムをハーナウ伯とし、カールが成人する1764年10月13日までメアリーを摂政とすることを定めた[2]。摂政となったメアリーは貨幣の製造権を持つようになり、君主のように自身の名前、称号、半身像、ヘッセン=カッセルとグレートブリテンの紋章が刻まれた硬貨を発行した[2]。
息子が統治するようになった後もハーナウに住み、イギリス王家との文通を続けた[2]。1769年には兄の息子にあたるグロスター=エディンバラ公ウィリアム・ヘンリーが大陸ヨーロッパ旅行の一環としてハーナウでメアリーのもとを訪れた[2]。
1772年1月14日にハーナウで死去、2月1日に同地のプロテスタント教会(現聖マリア教会)に埋葬された[1]。メアリー死去の報せは1月25日にロンドンにもたらされ、悲しみをもって受け入れられた[1]。1月27日のパンテオン営業開始に欠席する人物が出るほどだった[1]。遺産は下の息子カール、フリードリヒが相続し、上の息子ヴィルヘルムは1785年に方伯位を継いだ[1]。カールもフリードリヒも軍人になったほか、多くの子孫の残し、中にはエドワード7世王妃アレクサンドラ、ジョージ5世王妃メアリーのようにイギリス王家に嫁ぐ人物も含まれた[2]。
子女
[編集]メアリーは夫との間で4男をもうけ、うち長男が夭折した[2]。
- ヴィルヘルム(1741年 - 1742年)
- ヴィルヘルム1世(1743年 - 1821年) - 従妹にあたるデンマーク王女ヴィルヘルミーネ・カロリーネ(フレゼリク5世と王妃ルイーゼの次女)と結婚。
- カール(1744年 - 1836年) - 従妹にあたるデンマーク王女ルイーセ(フレゼリク5世と王妃ルイーゼの3女)と結婚。
- フリードリヒ(1747年 - 1837年) - ナッサウ=ウジンゲン公女カロリーネと結婚。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l Rigg, James McMullen (1893). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 36. London: Smith, Elder & Co. p. 404. . In
- ^ a b c d e f g h i Williamson, David (23 September 2004). "Mary, Princess". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/18253。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)