ムスチスラフ・グレボヴィチ
ムスチスラフ・グレボヴィチ Мстислав Глебович | |
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チェルニゴフ公 ノヴゴロド・セヴェルスキー公? | |
在位 |
チェルニゴフ公:1235年以降 ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1212/5年 - 1239年 |
死去 |
1239年以降 |
子女 | アンドレイ |
家名 | リューリク家 |
父親 | チェルニゴフ公グレプ |
母親 | アナスタシヤ |
ムスチスラフ・グレボヴィチ(ロシア語: Мстислав Глебович、? - 1239年以降)は、チェルニゴフ公グレプの子である。チェルニゴフ公:1235年以降。あるいはノヴゴロド・セヴェルスキー公位にもあったとされる。
ノヴゴロド・セヴェルスキー公に関する説
[編集]L.ヴォイトヴィチの説によれば[1]、1206年にチェルニゴフ・オレグ家[注 1]における諸公会議(ru)で、ムスチスラフはノヴゴロド・セヴェルスキー公位の継承権を得たとされている。この説によれば、ムスチスラフのノヴゴロド・セヴェルスキー公への在位期間は1212年もしくは1215年から1239年までとなる。
一方、ウラジーミル(在位1198年 - 1206年)の後のノヴゴロド・セヴェルスキー公は、オレグ、次いでイジャスラフであったとする説もある[2][3]。
生涯
[編集]1234年、ミハイルがキエフのウラジーミルを攻めた際に、ウラジーミルの同盟者であるダニールのチェルニゴフ防衛軍に属し、デスナ川流域で戦闘を展開したとされる[注 2]。一方、A.ゴルスキーの説では、ムスチスラフがチェルニゴフ公となったのは、ミハイルの強力な後押しがあったからであるとされている[4]。
1238年のシチ川の戦いでウラジーミル大公ユーリーが戦死し、一時キエフを接収したヤロスラフがウラジーミルへと撤収した後、ミハイル(上記のミハイル)がキエフを治めた。この機に際して、ムスチスラフはチェルニゴフを手中に収めようとしたが、すぐにミハイルによってチェルニゴフから追い払われた。1239年、モンゴル帝国軍によってチェルニゴフが包囲されると、ムスチスラフは軍勢を率いてチェルニゴフに救援に向かうが敗北した。1239年以降、ルーシの年代記(レートピシ)上にムスチスラフに関する記述はみられない。おそらく、ミハイル(上記のミハイル)らチェルニゴフ・オレグ家の諸公と共に、ハンガリーへ亡命したと考えられている。
家族
[編集]妻の名は不明。子には以下の人物がいる。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「チェルニゴフ・オレグ家」は便宜的な名称である。チェルニゴフ公オレグ(ru)の子孫であり、チェルニゴフ公、ノヴゴロド・セヴェルスキー公等のチェルニゴフ公国とその分領公国を統治した家系を指している。詳しくはru:Ольговичиを参照されたし。
- ^ 詳しくはru:Осада Чернигова (1235)を参照されたし。
出典
[編集]- ^ a b Войтович Л. Ольговичі. Чернігівські і сіверські князі // Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження. — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
- ^ «Мир истории. Русские земли в XIII—XV веках», Греков И. Б., Шахмагонов Ф. Ф., «Молодая Гвардия», М., 1988.
- ^ Пресняков А. Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь. — М.: Наука, 1993.
- ^ Горский А.А. Русские земли в XIII—XIV веках. Пути политического развития.Разрешать ситуацию войной самый некомпетентный политик. Это Путин.
参考文献
[編集]- Экземплярский А. В. Черниговские, князья // Русский биографический словарь : в 25 томах. — СПб.—М., 1896—1918.