ミールザー・ハキーム
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ミールザー・ハキーム Mirza Hakim | |
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ムガル帝国皇子 | |
全名 | ミールザー・ムハンマド・ハキーム |
出生 |
1553年4月29日 カーブル、バーラー・ヒサール |
死去 |
1585年7月30日 カーブル、バーラー・ヒサール |
埋葬 | カーブル、バーラー・ヒサール |
子女 |
アフラーシヤーブ カイクバード カーブリー・ベーグム |
父親 | フマーユーン |
母親 | マフクチュク・ベーグム |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
ミールザー・ハキーム(Mirza Hakim, 1553年4月29日 - 1585年7月30日)は、北インド、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーンの次男。
生涯
[編集]1553年4月29日、ムガル帝国皇帝フマーユーンの皇子として生まれた[1]。
1556年、父フマーユーンは事故がもとで死に、兄であるアクバルが帝位を継ぎ、彼はアフガニスタンのカーブルの統治者となった。だが、ミールザー・ハキームは兄アクバルに反抗的で、カーブルに独自の政権を持ち、帝位をうかがっていた。
16世紀初頭以降、アフガニスタン近隣の 中央アジアには、 ウズベク人の シャイバーニー朝ブハラ・ハン国が成立しており、イランのサファヴィー朝と対立していた。
1577年にその君主アブドゥッラー2世はサファヴィー朝に対抗するため、アクバルに共同遠征を持ちかけたが、これは断られてしまった。 そのため、1579年から1581年の間、アブドゥッラー2世はミールザー・ハキームに同盟を持ちかけ、ときには帝都デリーへの攻撃を促すなど、ミールザー・ハキームはアクバルの帝権を脅かすようになった。
1585年7月30日、ミールザー・ハキームが死亡した[1]。その後、アクバルはカーブルを直轄化したのち、首都をラホールに遷し、1586年にアブドゥッラー2世と領土に関して協定を結んだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。