ミロシュ・ヤケシュ
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ミロシュ・ヤケシュ Miloš Jakeš | |
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生年月日 | 1922年8月12日 |
出生地 |
チェコスロバキア チェスケー・ハルピ |
没年月日 | 2014年7月10日(91歳没) |
死没地 | チェコ プラハ |
出身校 |
ソビエト連邦共産党中央委員会 高等学校 |
所属政党 |
チェコスロバキア共産党 (1945年 - 1989年) |
称号 | |
配偶者 |
クヴェテナ・ヤケショバ (1943年 - 2013年) |
子女 |
ミロシュ・ヤケシュ ルボミール・ヤケシュ |
在任期間 | 1987年12月17日 - 1989年11月24日 |
在任期間 | 1971年11月27日 - 1989年12月13日 |
ミロシュ・ヤケシュ(チェコ語: Miloš Jakeš[1], 1922年8月12日 - 2020年7月10日[2][3])は、チェコスロバキアの政治家、チェコスロバキア共産党書記長(1987年 - 1989年)。
来歴・人物
[編集]チェスケー・ブジェヨヴィツェ近郊のチェスケー・ハルピに生まれる。1937年から1950年までズリーンの靴工場で働き、その間、チェコスロバキア共産党に入党。1955年 - 1958年のモスクワ留学。1968年のワルシャワ条約機構軍の侵攻(プラハの春)後に始まった正常化体制で改革派のパージに積極的に関与した。
1987年12月、グスターフ・フサークの後任として党書記長に就任。自らを改革者と規定しつつも、反体制グループとの対話を一切拒否するなど強硬な姿勢を崩さなかった。1989年11月のビロード革命によって書記長を辞任。2003年に1968年の軍事侵攻でソ連軍と共謀し、革命労農政府樹立を企図した嫌疑で裁判にかけられた。
2020年7月、死去[3]。
脚注
[編集]- ^ 一般にはミロシュ(Miloš)で知られているが、正しい表記はミロウシュ(Milouš)であることが2003年の裁判中に明らかになった。
- ^ Miloš Jakeš zemřel, bývalému nejmocnějšímu muži ve státě bylo 97 let E15 2020年7月14日配信 2020年7月16日閲覧
- ^ a b “元共産党書記長のヤケシュ氏死去/チェコ、ビロード革命で辞任”. 四国新聞社. 2020年7月15日閲覧。