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ミドルグラウンド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミドルグラウンド
欧字表記 Middleground
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1947年4月22日[1]
死没 1972年2月16日[1]
Bold Venture
Verguenza
母の父 Chicaro
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生産者 King Ranch[1]
馬主 King Ranch[1]
調教師 Max Hirsch[1]
競走成績
生涯成績 15戦6勝[1]
獲得賞金 237,725ドル[1]
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ミドルグラウンドMiddleground, 1947年4月22日 - 1972年2月16日)は、アメリカ合衆国競走馬種牡馬。1950年のケンタッキーダービーベルモントステークスに優勝した。

経歴

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  • 特記がない限り、競走はすべてダートコース。また、当時はグレード制未導入。

テキサス州最大の牧場であるキング牧場で生産されたサラブレッドの牡馬である。マックス・ハーシュ調教師の下で競走馬としての訓練を積まれ、まだ16歳だった頃のビル・ボランド騎手が全戦で手綱を取った。

2歳時は5戦して4勝を挙げ、ホープフルステークスサラトガ・6.5ハロン)でステークス競走勝ちを挙げるなど良績を収めたが、1949年のフリーハンデキャップにおいてはヒルプリンスやオイルキャピトル[注 1]に次ぐといった評価に留まっていた[2]

1950年、この年のクラシック路線は東西対決の様相を呈しており、西海岸のエースにはサンタアニタダービー勝ち馬のユアホストが据えられ、一方東海岸のエースはウッドメモリアルステークス勝ち馬のヒルプリンスであった[3]。ミドルグラウンドはこの戦線においてダービートライアルステークス(チャーチルダウンズ・8ハロン)とウッドメモリアルステークス(アケダクト・9ハロン)で2着に入っていた。

5月6日のケンタッキーダービー(チャーチルダウンズ・10ハロン)当日のミドルグラウンドは同馬主のオンザマークという馬とカップリング[注 2]で単勝オッズ約9倍、4番人気という評価であった[3]。レースが始まって最初に先頭に立ったのはユアホストであったが、そこにミドルグラウンドが現れて先頭を奪い取っていった。そしてミドルグラウンドが先頭に立って、その後ろ半馬身差の位置にブルーグラスステークス勝ち馬のミスタートラブルが追走するという流れのまま残り1ハロンのところまで進むと、バックストレッチから10馬身差をまくり上げてきたヒルプリンスが1馬身半差の3番手まで押し上げてきた。ヒルプリンスはミスタートラブルを追い抜いたものの、先頭を行くミドルグラウンドまでは捕らえ切れず、1馬身1/4差でミドルグラウンドが優勝を手にした。勝ちタイムの2分1秒3/5というタイムは、当時のワーラウェイのダービーレコードタイムに1/5秒差まで迫るものであった[4]

ダービーの翌週にはウィザーズステークスベルモントパーク・8ハロン)に出走したが、ここではヒルプリンス相手に1馬身半差の2着に敗れた。そのためか、その翌週に迎えたプリークネスステークスピムリコ・9.5ハロン)においてはヒルプリンスが1番人気なのに対してミドルグラウンドは3番人気と人気を落としていた[4]。この年のプリークネスステークスは不良馬場のなか行われ、そこで先頭を切って進んだのはバルカンという穴馬であった。その後ろ半馬身差の位置にミスタートラブルが続き、そのすぐ後ろにはヒルプリンス、そのまた後ろにミドルグラウンドが追走する形でレースは進んでいった。ここでヒルプリンス鞍上のエディ・アーキャロはヒルプリンスを少し下げて外に持ち出し、そこから追い上げてミスタートラブルとの間に3馬身差をつけて先に立った。ミドルグラウンドもこれを追いかけたが、最終コーナーで沈んできたバルカンにぶつかって失速してしまう。それでもミドルグラウンドはヒルプリンスに残り1馬身差のところまで追い上げたが、そこからさらにヒルプリンスが伸び、5馬身差をつけられて2着に敗れた[4]

3週間後に行われたベルモントステークス(ベルモントパーク・12ハロン)において、1番人気に選ばれたのはヒルプリンス、2番人気がミドルグラウンドであった。この競走ではライツアップという馬が先頭を切って走っていたが、1マイルを過ぎたところでヒルプリンスがその先頭を奪い、2番手となったライツアップから1馬身半ほど離してレースを進めていった。一方のミドルグラウンドはそこから3馬身ほど離れた4番手に控えていた。ハイペースでの先頭争いが祟ってヒルプリンスが失速し始めると、ミドルグラウンドはコースの中央に位置取って推進、最後の直線で先頭に立っていたライツアップを1馬身差で追い抜いて優勝した[4]

その後、ジェロームハンデキャップ(アケダクト・8ハロン)出走時に骨折し、そのまま競走生活を引退した。15戦して6勝、2着6回、3着2回と、最後の競走となったジェロームハンデキャップ以外ではすべて複勝圏内に入る競走成績であった[1]

種牡馬入り後

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1951年より故郷のキング牧場で種牡馬入りした。アメリカジョッキークラブの調べによれば、ミドルグラウンド産駒130頭のうち101頭が勝ち上がるという高い勝ち上がり率を見せたが、一方でステークス勝ち馬は7頭に留まったという[1]。活躍した産駒には牝馬が多く、主な産駒にアラバマステークス勝ち馬のヒアアンドゼア(Here and There、1954年生、牝馬)、コーチングクラブアメリカンオークス勝ち馬のレサカ(Resaca、1956年生、牝馬)がいる。

ミドルグラウンドは1972年に死亡、遺骸はキング牧場に埋葬された[1]。のちの2000年、テキサス競馬名誉の殿堂によってミドルグラウンドが表彰され、殿堂入りが発表された。

血統表

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ミドルグラウンド血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 スウィンフォード系
[§ 2]

Bold Venture
アメリカ 栗毛 1933
父の父
St. Germans
イギリス 鹿毛 1921
Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Hamoaze Torpoint
Maid of the Mist
父の母
Possible
アメリカ 栗毛 1920
Ultimus Commando
Running Stream
Lida Flush Royal Flush
Lida H.

Verguenza
アメリカ 鹿毛 1940
Chicaro
アメリカ 鹿毛 1923
Chicle Spearmint
Lady Hamburg
Wendy Peter Pan
Remembrance
母の母
Blushing Sister
アメリカ 鹿毛 1932
Bubbling Over North Star
Beaming Beauty
Lace Bunting
Stickling
母系(F-No.) (FN:4-m) [§ 3]
5代内の近親交配 Commando 4x5, Domino 5x5, Broomstick 5x5 [§ 4]
出典
  1. ^ [5], [6]
  2. ^ [6]
  3. ^ [5]
  4. ^ [5], [6]


脚注

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参考文献

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  • Richard Sowers (2014). The Kentucky Derby, Preakness and Belmont Stakes: A Comprehensive History. Trade paperback. ISBN 9780786476985 

注釈

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  1. ^ オイルキャピトル(Oil Capitol)は1947年生まれの牡馬。2歳時にピムリコフューチュリティやブリーダーズフューチュリティといったステークス競走で4勝を挙げ、ヒルプリンスと並んで最優秀2歳牡馬に選出されている。その後も古馬になるまで競走生活を続け、1953年のワイドナーハンデキャップで優勝している(Equibase)。
  2. ^ アメリカ競馬の制度で、同馬主の出走馬をまとめて単一の馬番とする制度のこと。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j Avalyn Hunter. “Middleground (horse)”. American Classic Pedigrees. 2022年2月3日閲覧。
  2. ^ Middleground”. Texas Horse Racing Hall of Fame. 2022年2月3日閲覧。
  3. ^ a b Sowers p.157
  4. ^ a b c d Sowers p.158
  5. ^ a b c 血統情報:5代血統表|Middleground(USA)”. JBISサーチ. 2022年2月3日閲覧。
  6. ^ a b c Middlegroundの血統表”. netkeiba.com. 2022年2月3日閲覧。

外部リンク

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