ミステリー・ディスク
『ミステリー・ディスク』 | ||||
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フランク・ザッパ の コンピレーション・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 | 1962年 - 1972年 | |||
レーベル |
ライコディスク(1996年2月) ザッパ(2012年11月) | |||
プロデュース | フランク・ザッパ | |||
フランク・ザッパ アルバム 年表 | ||||
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『ミステリー・ディスク』(Mystery Disc)は、アメリカ合衆国のロック・ミュージシャンのフランク・ザッパが編集したアルバム。1980年代に彼が編集したLPレコードのボックス・セットThe Old Masters Box One(1985年)とThe Old Masters Box Two(1986年)に添付されていた『ミステリー・ディスク』の収録曲から構成されている。
解説
[編集]経緯
[編集]ザッパは1981年にBarking Pumpkin Recordsを設立し、1960年代にヴァーヴ・レコードから発表したアルバムを含めて、これまでに様々なレコード会社から発表したザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(The Mothers of Invention、MOI)名義とザッパ名義アルバム全てに対する権利を獲得した。そこで彼は、MOI名義の13作とザッパ名義の5作をリミックスして、これらのアルバムを発売順に完全収録した[注釈 1]The Old Mastersのシリーズを発表した。
このシリーズはBox One(1985年4月)、Box Two(1986年11月)、Box Three(1987年12月)の3部からなり、Box OneとBox Twoには未発表音源を収録した『ミステリー・ディスク』が含まれた。Box Oneの『ミステリー・ディスク』(以下、Mystery Disc 1)には未発表音源20曲に加えて、MOIが1967年に発表したシングル[1]から'Why Don't You Do Me Right'と'Big Keg Emma'が収録され、ザッパによる解説が添付された。Box Twoの『ミステリー・ディスク』(以下、Mystery Disc 2)には未発表音源15曲が収録され、Mystery Disc 1と異なり、ザッパの解説は添付されなかった。
ザッパが1993年に病没した後の1998年、Mystery Disc 1から'Why Don't You Do Me Right'と'Big Keg Emma'を除く[注釈 2]20曲、Mystery Disc 2から全15曲の計35曲が一枚のCDに収録されて、『ミステリー・ディスク』として発表された。
内容
[編集]ザッパは1969年8月のインタビューで、The History and Collected Improvisations of The Mothers Of Inventionと題した10枚組アルバムを年内に発表すると語った。彼はこのアルバムにMOIの音源だけでなく、彼がミュージシャンとしての道を歩み始める前の1950年代に録音したものや、MOIが結成される前の1960年代前半にカリフォルニア州クカモンガ(現ランチョ・クカモンガ)で行なった初期の音楽活動の未発表音源も収録するつもりだった。しかし、この計画は主に経費が理由で実現しなかった[注釈 3][2]。Mystery Disc 1とMystery Disc 2には、The History and Collected Improvisations of The Mothers Of Inventionに収録される予定だった曲も幾つか含まれたとされている。以下、ライコディスク(RCD 40573)のライナーノーツと参考文献に基づいて、内容を概説する。
ザッパの作曲家としての初仕事になった西部劇映画"Run Home Slow"[3][注釈 4](1965年)の主題曲'Theme From Run Home Slow'は、1964年にロサンゼルスのOriginal Soundのスタジオで11人編成のオーケストラとザッパ(ギター)によって録音された。なお1996年に発表された編集アルバム『ロスト・エピソード』には、同じ顔ぶれによって録音された'Run Home Slow Theme'が収録されたが、ステレオ録音である、冒頭部分でトロンボーンとピアノが演奏されている、ギター・ソロがない、トランペットの演奏が異なる、などの違いがあり[4][注釈 5]、異なる音源であると推測されている。
'Original Duke of Prunes'は'Theme From Run Home Slow'と同じ顔ぶれによって録音された。後にザッパはこの曲に詞をつけて、'The Duke of Prunes'としてMOIのアルバム『アブソリュートリー・フリー』(1967年)で発表した。
ザッパは1960年にレコーディング・エンジニアのポール・バフ(Paul Buff)に出会い、バフが50年代後半にクカモンガに設立したパル・レコーディング・スタジオ(本稿ではパル・スタジオと略する)で[注釈 6]、バフから技術を学びながら共同または単独で様々なレコーディングを行なっていた。そして"Run Home Slow"の音楽を担当して得た報酬を資金源に、1964年7月にバプからパル・スタジオを買い取ってスタジオZと改名して、8月1日に再出発させた。'Opening Night at "Studio Z" (Collage)'は、再出発のパーティーでの録音のコラージュで、出席したドン・グレン・ヴリート[注釈 7]、ジム・シャーウッド[注釈 8]、レイ・コリンズ[注釈 9]などの声が収録された。
'The Village Inn'と’Steal Away'[注釈 10]はクカモンガから80マイルほど離れたサン・ビレッジ(Sun Village)にあるビレッジ・イン(The Village Inn)で1965年の初頭に録音された。当時、ザッパは週末にビレッジ・インで演奏して一晩につき7ドルを受け取った[5]。ベース・ギターを演奏したジョニー・フランクリンは、ザッパがアンテロープ・バレー・ハイ・スクールに在学中に結成したザ・ブラックアウツ(Tha Black-Outs)のメンバーだった[6][注釈 11]。ビレッジ・インとフランクリンは、MOIのアルバムRoxy & Elsewhereに収録された'Village of the Sun'で取り上げられた[7]。
'I Was a Teen-age Malt Shop'[8]と'The Birth of Captain Beefheart'は1964年12月にスタジオZで録音された。'I Was a Teen-age Malt Shop'はザッパが当時書いていたロックン・ロールのオペラ[注釈 12]の主題曲。ヴリートが題を読み上げ、ザッパ(ピアノ)、ジム・シャーウッド(ギター)、ヴィック・モーテンセン(ドラムス)[9][注釈 13]による演奏が続く。'The Birth of Captain Beefheart'は、ザッパとヴリートが共同で制作していたSF映画"Captain Beefheart Vs. The Grunt People"[10]の科白である。この制作では、ザッパが台本を書いてヴリートが主役のCaptain Beefheart[11][注釈 14]を演じていた[注釈 15]。
'Metal Man Has Won His Wings'[12]は、ザッパがヴリート(ボーカル)、モーテンセン(ドラムス)、Janschi(リズム・ギター)と結成したザ・スーツ(The Soots)[13][14][15]の演奏。1964年にパル・スタジオで録音された。
'Power Trio from The Saints N' Sinners'は、ザッパがレス・パップ(ドラムス)、ポール・ウッズ(ベース・ギター)と結成したThe Muthers[16][注釈 16]が、1964年もしくは1965年の週末に、オンタリオで演奏していた時の録音。
'Bossa Nova Pervertamento'は、1965年3月25日にスタジオZでザッパがThe Muthersのパップ、ボビー・サルダナ(ベース・ギター)と行なったセッションを録音したもの。
'Excerpt from The Uncle Frankie Show'は、ザッパがポモナ・カレッジのラジオ局のKSPCで放送する為にスタジオZで制作した音声の抜粋。録音はおそらく1964年10月であろうと推測されている。当時、彼は在校生のふりをして、このラジオ局に出入りしていた。
'Charva'はザッパが1964年にスタジオZでボーカル、ピアノ、ドラムスを全て自分で担当して録音した。彼が晩年に編集したアルバム『ロスト・エピソード』(1996年)には、同じ録音をモノラル編集したものが収録された。
'Speed-Freak Boogie'は、ザッパが1963年にパル・スタジオでダグ・ムーン[注釈 17](リズム・ギター)と録音したもの。ムーンが刻むリズムが一定の速度を保っているのに対して、ザッパのリード・ギタ―は速度を上げて再生されている。この技法はMOIのアルバム『アンクル・ミート』(1969年)に収録された'Nine Types of Industrial Pollution'でも用いられた。
'Original Mothers at The Broadside (Pomona)'は、コリンズが在籍していたザ・ソウル・ジャイアンツがザッパをギタリストとして迎えて[17][注釈 18]、彼等が活動の拠点にしていたポモナのブロードサイドというバーで録音した。
'Party Scene from Mondo Hollywood'は1967年に公開された記録映画”Mondo Hollywood”[18]のパーティーの場面の録音である。この映画はハリウッドのヒッピー文化を捉えたモンド映画で、監督のロバート・カール・コーエン[注釈 19]がMOI[注釈 20]の初代マネージャーのマーク・チェカ[19]の友人だったことから、MOIの出演が実現した[20]。
'Original Mothers At Fillmore East'、'Harry, You're A Beast'、'Don Interrupts'、'Piece One'、'Jim/Roy'、'Piece Two'、'Agency Man'、'Lecture From Festival Hall Show'は、1968年10月25日にBBC交響楽団の13名の団員[注釈 21]を迎えてロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで行なわれたMOIのコンサート[21]の音源である。これらのうち、'Original Mothers At Fillmore East'[注釈 22]と'Lecture From Festival Hall Show'以外は、ザッパが病没した1993年の3月にBarking Pumpkin Recordsより発表されたAhead Of Their Timeに収録された[注釈 23]が、本作に収録されたものはいずれも異なる編集が施されている。
'Wedding Dress Song/The Handsome Cabin Boy'は、『ロスト・エピソード』に収録された音源と同一で、1968年2月から4月までの間に、ニューヨークのアポストリック・スタジオで録音された。
'Black Beauty'は1969年2月にフロリダ州マイアミビーチで録音されたもので、異なる編集版がYou Can't Do That on Stage Anymore, Vol. 5(1992年)に'Underground Freak-Out Music'として収録された。
'Skweezit Skweezit Skweezit'は1969年2月16日にコネティカット州ストラトフォードで録音されたものと推測されており[22]、異なる編集版がFiner Moments(2012年)に'Squeeze It, Squeeze It, Squeeze It'として収録された。
'Chucha'と'Harmonica Fun'は1969年2月にフロリダ州マイアミのスタジオで録音された。'Chucha'ではローウェル・ジョージがリード・ボーカルを担当。'Harmonica Fun'と同一の音源がさらに長く編集されたものが、Finer Moments(2012年)に'You Never Know Who Your Friends Are'として収録された。
'The Story of Willie The Pimp'は1969年、'Mothers at KPFK'はおそらく1968年の録音。前者はアニー・ザナスというグルーピーがザッパに自分の父親の話をする内容。後者はロサンゼルスのラジオ局であるKPFKにMOIのメンバーが出演した時の放送である。
収録曲
[編集]ライコディスク(RCD 40573)のライナーノーツと参考文献(2018年)[23]に基づく。
1-20はMystery Disc 1、21-35はMystery Disc 2の収録曲。
以下に、他のアルバムとの重複を示す。上記のように、同一の音源であっても編集や題名が異なる場合があることに注意。
- Ahead of Their Time - 21、22、23、24、25、26
- 『ロスト・エピソード』 - 1*、12、29
- You Can't Do That on Stage Anymore, Vol. 5 - 32
- Finer Moments - 30、35
*別の音源と考えられる。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “Discogs”. 2023年3月25日閲覧。
- ^ Ulrich (2018), pp. 358–360.
- ^ “imdb,com”. 2023年3月25日閲覧。
- ^ Ulrich (2018), pp. 300, 357.
- ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 43–44.
- ^ Miles (2004), pp. 37–38.
- ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 43–49.
- ^ Miles (2004), p. 24.
- ^ Barnes (2011), pp. 14, 17, 22.
- ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 54–55.
- ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 37.
- ^ Miles (2004), p. 77.
- ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 49–50.
- ^ Miles (2004), pp. 76–78.
- ^ Barnes (2011), p. 13.
- ^ Miles (2004), p. 84.
- ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 65.
- ^ “imdb.com”. 2023年5月27日閲覧。
- ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 67–68.
- ^ Miles (2004), pp. 95–96.
- ^ Ulrich (2018), pp. 12–17.
- ^ Ulrich (2018), pp. 365–366.
- ^ Ulrich (2018), pp. 355–367.
注釈
[編集]- ^ ザッパは編集当時の自分のバンドのメンバーのアーサー・バーロウとチャド・ワッカーマンを起用して、Box Oneに収録したMOI名義の『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』の全曲と『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』のほぼ全曲のベースとドラムスの部分を録音し直した。
- ^ この2曲は、MOIの2作目のアルバム『アブソリュートリー・フリー』(1967年)のCDに収録された。
- ^ 彼は同年10月にMOIの解散を宣言して12枚組アルバムの発表を計画したが、10,000部作るだけで250,000ドルもの費用がかかることがわかった。1969年の250,000ドルは、2023年の約2,000,000ドルに相当する。
- ^ ザッパは1958年6月にランカスターのアンテロープ・バレー・ハイ・スクールを卒業して、1959年に、母校の英語教師だったドン・セルヴェリスが脚本を書いた映画"Run Home Slow"の音楽を書いた。
- ^ 映画に使われた主題曲は、両者のいずれとも異なる録音だった。
- ^ バフはクカモンガ出身のエンジニアで、レコーディングに興味をもって独学で技術を習得し、さらにギター、ベース、ドラムス、キーボード、サクソフォーンの演奏も学んだ。彼は1950年代後半、21歳の時にクカモンガにパル・スタジオを設立して、レコーディング機材を自らの手で改良し、サーフ・ミュージックやドゥーワップのシンガーやグループとマスター・テープを制作して、ハリウッドのレコード会社に売り込んだ。
- ^ アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生だった。のちのキャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートである。
- ^ アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの後輩で、ザッパと共にパル・スタジオに出入りしていた。のちにモーターヘッド・シャーウッドとしてMOIで活動した。
- ^ ボーカリストのコリンズとザッパは1962年にコリンズの出身地であるポモナで出会い、同年から1963年にかけてパル・スタジオで、ザッパの単独作や二人の共作を共同でレコーディングした間柄だった。1965年、コリンズはザッパを自分が在籍していたザ・ソウル・ジャイアンツに勧誘して、のちにMOIと名乗るザ・マザーズが誕生するきっかけを作った。
- ^ ジミー・ヒューズが1964年に発表したヒット曲。
- ^ サン・ビレッジは、アンテロープ・バレー・ハイ・スクールがあるランカスターから約20マイル南に位置する、アフリカ系アメリカ人が多く住む町だった。ザ・ブラックアウツは時折ビレッジ・インに行って、パーティーで演奏したりリハーサルを行なったりした。
- ^ ザッパは1962年にレイ・コリンズと’Hey Nelda'を共作して、Ned and Neldaの名義でシングル・レコードを発表した。1964年、彼はNedとNeldaという父娘を題材にしたロックン・ロールのオペラを書いて、12月には、CBSの日曜日のテレビ番組の一つで、様々な実験を取り上げて30分間放送していたCBS Repertoire Workshopのプロデューサーに聴かせた。残念ながらCBSには受け入れられず、このオペラはお蔵入りになった。この作品がもし発表されていれば、史上初のロック・オペラになっていたであろう。
- ^ ライナーノーツにはVic Mortensonと記されているが、正しくはVic Mortensenである。アンテロープ・バレー・ハイ・スクールのザッパやヴリートの後輩にあたる。1965年に、ヴリート改めドン・ヴァン・ヴリートが率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バントの2代目ドラマーになるが、ほどなくベトナム戦争の為に徴兵されて離脱した。
- ^ ビーフハート(Beefheart)という単語の由来は、ヴリートの伯父(もしくは叔父、ここでは伯父とする)の奇行であった。ヴリートは心臓を病んだ父親に代わってパン屋のトラックを運転する為に高校を中退したが、実際にはガールフレンドと一緒に両親の家にいることが多かった。その頃、両親は彼の伯父夫妻と同居しており、その伯父は用を足す時にわざと戸を開けっぱなしにして、彼のガールフレンドが通りかかると、彼女に己の姿を晒して「まるで牛の心臓(beef heart)みたいに立派だろう」とのたまわったという。
- ^ やがてヴリートはドン・ヴァン・ヴリートと改名し、翌1965年にキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドを結成して、自分のステージ名をキャプテン・ビーフハートにした。
- ^ トリオ名のmuthersは、mothersの綴りを意図して変えたもの。1965年にザッパがザ・ソウル・ジャイアンツに加入して誕生したザ・マザーズとは異なる。
- ^ アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの出身で、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドのオリジナル・ギタリストの一人。彼は結成後まもなく、ヴァン・ヴリートによってライ・クーダーと交代させられたが、1969年に発表されたアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』の収録曲の一つに客演した。
- ^ ザ・ソウル・ジャイアンツはやがてザ・マザーズと改名し、1966年6月にMOIと名乗ってレコード・デビュ―を果たした。
- ^ のちにMOIのマネージャーになったハーブ・コーエンとの血縁関係はない。
- ^ 当時はザ・マザーズ。
- ^ フレンチ・ホルン奏者2名、トランペット奏者2名、トロンボーン奏者2名、チューバ奏者1名、オーボエ奏者2名(うち1名はイングリッシュ・ホルンも担当)、ビオラ奏者1名、クラリネット奏者2名(うち1名はバスクラリネットも担当)、指揮者1名。この日のコンサートは2回開かれ、いずれも前半部にMOIと団員との共演が繰り広げられた。
- ^ 題名は明らかな誤りである。
- ^ ライナーノーツには録音年月日が1968年10月28日となっていた。
参考文献
[編集]- Zappa, Frank; Occhiogrosso, Peter (1990). The Real Frank Zappa Book. Touchstone. ISBN 0-671-70572-5
- Miles, Barry (2004), Zappa, Grove Press, ISBN 0-8021-4215-X
- Ulrich, Charles (2018), The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa, New Star, ISBN 978-1-55420-146-4