コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ミア・マルティーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミア・マルティーニ
Mia Martini
1973年
基本情報
出生名 ドメニカ・ベルテ
別名 ミミ・ベルテ
生誕 1947年9月20日
出身地 イタリアの旗 イタリア
バニャーラ・カーラブラ
死没 (1995-05-12) 1995年5月12日(47歳没)
ミラノ
ジャンル カンツォーネロックポップス
職業 シンガーソングライター
担当楽器
活動期間 1963年~1995年
レーベル CAR Juke Box
Durium
RCA Italiana
Dischi Ricordi
ワーナー・ブラザース・レコード
DDD
Fonit Cetra
Esse Records
RTI Music
1964年、ミミ・ベルテ時代
1973年、「金のゴンドラ」受賞
1973年
1973年
1975年
1986年

ミア・マルティーニ: Mia Martini、本名ドメニカ・ベルテ Domenica Bertè 1947年9月20日 - 1995年5月12日)は、イタリア歌手、シンガーソングライター。「ミア・マルティニ」と表記されることもある。

来歴

[編集]

カラブリア州レッジョ・カラブリア県バニャーラ・カーラブラで、4人の娘の2番目に生まれまる。最年少の妹は、テニス選手のビョルン・ボルグと結婚した歌手としても有名なロレダーナ・ベルテである。

1963年、「ミミ・ベルテ」の芸名でデビューするも、あまりパッとしなかったが、転機は1971年、「ミア・マルティーニ」に改名しての再デビューだった。音楽性を一新し、少女アイドルらしい甘いポップスから、より骨太で大仰かつ深遠なロック路線へと移行し、1972年の曲「Piccolo uomo」はフェスティバル・バールに優勝する大ヒット曲となった。続く「Menuetto」、「Donna sola」もヒットし、1972年のヴェネツィア音楽祭で「金のゴンドラ」を受賞した。一足先に成功をおさめ、日本でも人気があるジリオラ・チンクェッティとは同い年であり、テレビ番組などで共演もしている。1977年には世界歌謡祭に参加するため訪日した。1995年、47歳で急死[1]。検死の結果、コカインの過剰摂取による心不全であったことが判明した[2]

ディスコグラフィー

[編集]

アルバム

[編集]

生前の公式コンピレーション・アルバム

[編集]

未発表曲を含む没後のアルバム

[編集]

さまざまなコンピレーション・アルバム

[編集]

V.A.

[編集]
  • 1996 - カンツォーネ~イタリアン・ポップス・ベスト・セレクション (BMG) - 「Minuetto」収録

VHS & DVD

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ CD「カンツォーネ~イタリアン・ポップス ベスト・セレクション」解説文
  2. ^ “[http://www.repubblica.it/spettacoli/musica/2015/05/12/news/mia_martini-114019951/?ref=HRERO-1 Mia Martini, vent'anni dopo. Le maldicenze la uccisero ma il suo talento è immortale Carmine Saviano]”. 12 maggio 2015閲覧。