マンモス鈴木
マンモス鈴木 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
マンモス鈴木 ゴリラ鈴木 |
本名 | 鈴木 幸雄 |
ニックネーム | ヒマラヤの雪男 |
身長 | 193cm |
体重 | 120kg |
誕生日 | 1941年2月10日 |
死亡日 | 1991年5月24日(50歳没) |
出身地 | 宮城県仙台市 |
所属 |
日本プロレス 東京プロレス 国際プロレス |
デビュー | 1958年9月5日 |
マンモス鈴木(マンモス すずき、1941年2月10日[1] - 1991年5月24日[1])は、日本のプロレスラー[1]、俳優。力道山の弟子。日本プロレス、東京プロレス、国際プロレスに所属。
来歴
[編集]1956年、出羽海部屋に入門。同期には後の横綱佐田の山がいる。
1958年2月27日、日本プロレス入門。当時17歳だったが、193センチの長身と独特な風貌で期待を集めた。同年9月5日、蔵前国技館でタニー・アルフォード相手にデビュー戦を勝利で飾る。1960年5月10日からリングネームを「マンモス鈴木」とする。若手時代、ジャイアント馬場・アントニオ猪木・大木金太郎とともに若手四天王と呼ばれた[2]。
1961年7月にジャイアント馬場・芳の里とともに武者修行のため渡米。ニューヨーク地区、ロサンゼルス地区を中心に転戦するが、無断で途中帰国している。
帰国後の1962年6月16日、広島県福山市で凱旋試合が組まれたが、この際に相手のアントニオ猪木と引き分けた。凱旋試合を台無しにした猪木は力道山の怒りを買った[3]。同年9月21日、力道山・豊登と組みスカル・マーフィー、ムース・ショーラック&アート・マハリック組と対戦。鈴木の不甲斐なさに業を煮やした力道山が鉄拳制裁し、テレビ中継を通じて全国に失態をさらしてしまった。
力道山は鈴木の巨体を生かしたファイトに期待していたが、私生活の乱れと本番で取り乱すことが多かった。神経の細さから大成せず、1963年に内臓疾患で日本プロレスを引退する。後に東京プロレスで復帰した。東プロ崩壊後は、国際プロレスで選手を務めた後レフェリーに転身した。以降はレフェリー兼外国人レスラー係として、国際プロレスの活動停止まで在籍した。国際時代には俳優として映画にも出演。末期にはプロレス専門誌「デラックスプロレス」誌面において、他団体で同じ立場のジョー樋口、田中米太郎との併記でコラムを連載した。1981年8月9日、北海道羅臼での国際プロレス最後の試合で、なおかつ最後の金網デスマッチでもあった鶴見五郎VSテリー・ギッブスをレフェリングしている[4]。
その後はプロレス界、芸能界とも疎遠となった。1991年5月24日、塩竈市の病院で内臓疾患により死去。50歳没。
得意技
[編集]関連人物
[編集]映画
[編集]- 『お熱い休暇』(1968年12月7日、東京映画) - モンゴル役
- 『蝦夷館の決闘』(1970年2月8日、東京映画) - ロシカ(赤珠の護衛)役
- 『白昼の襲撃』(1970年2月28日、東京映画) - 前田役、主演:黒沢年男
- 『無頼漢』(1970年4月18日、東宝=にんじんくらぶ)
- 『凄い奴ら』(1971年3月6日、東宝) - レスラー崩れ役
- 『沈黙』(1971年11月13日、東宝)- 看守拷問役
- 『混血児リカ ハマぐれ子守唄』(1973年、東宝) - ゴリラ男役
- 『日本侠花伝』(1973年11月17日、東宝) - 六甲山役
- 『惑星大戦争』(1977年12月17日、東宝) - 宇宙獣人役[1]
- 『地獄』(1979年6月3日、東映) - 鬼3役
脚注
[編集]- ^ a b c d 野村宏平、冬門稔弐「2月10日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、45頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ 『アントニオ猪木自伝』新潮社〈新潮文庫〉、2000年、75頁。ISBN 978-4101297217。
- ^ 『アントニオ猪木自伝』新潮社〈新潮文庫〉、2000年、80-81頁。ISBN 978-4101297217。
- ^ 『忘れじの国際プロレス』ベースボール・マガジン社、2014年、64頁。ISBN 978-4583620800。