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マンハント (雑誌)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マンハント
MANHUNT
ジャンル ミステリー雑誌
刊行頻度 月刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
定価 100円(創刊号)
出版社 久保書店
発行人 山田忠雄
編集長 中田雅久
刊行期間 1958年8月号 - 1964年1月号
発行部数 公称5万[注 1]部(1958年8月)
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マンハント』は、日本のミステリー雑誌。1958年8月号で創刊。発行は久保書店。創刊当時のキャッチコピーは「世界最高のハードボイルド専門誌」(その後、「世界的ハードボイルド・ミステリィ雑誌」へと変更)。アメリカのフライング・イーグル社(Flying Eagle Publications, Inc.)発行のMANHUNTと版権契約を結んでおり、同誌の日本版という位置付けだった。1963年6月発売の8月号から『ハードボイルド・ミステリィ・マガジン』と改題され、1964年1月号をもって廃刊となった[1]

概略

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久保書店で性風俗雑誌『あまとりあ』の編集を行っていた中田雅久が、同誌廃刊後、社長の久保藤吉に出版をもちかけたのが創刊のきっかけとされる[2]。また中田雅久は『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長だった都筑道夫から本国版MANHUNTの存在を教えられたと語っており、それまで翻訳雑誌を手がけたことがなかった中田はその後も翻訳雑誌編集の秘訣を都筑道夫から教わったと語っている[2]

創刊号では、「我が国でも、スピレインが翻訳されていらい、急激に増えたハードボイルド・ファンの渇をいやすべく、ここに《マンハント・日本語版》は華やかに進水した」と宣言するなど、当時、ミステリーの新興ジャンルと見なされていたハードボイルド小説の日本紹介に並々ならぬ意欲を示していた。また創刊号には江戸川乱歩木々高太郎も祝辞を寄せており、本格派とハードボイルド派の枠を超えて同誌の発刊を後押しする中での船出だった。

しかし、華々しくスタートした『マンハント』は、1964年1月号をもって突然の廃刊を迎えることになる。1963年8月号で本国版MANHUNTとの提携も解消され、誌名も『ハードボイルド・ミステリィ・マガジン』と改題されていたものの、「世界的ハードボイルド・ミステリィ雑誌」(このキャッチフレーズも『ハードボイルド・ミステリィ・マガジン』へと改題された時点で削除されていた)としてのクオリティは基本的には維持されていた。しかし、1964年1月号の最終ページで「はなはだ突然ですが、本誌は今月号をもって終刊させたいただくことになりました」。事前の予告の全くない突然の廃刊だった。その理由について中田雅久は「なぜかというと、私が会社をやめようかなって言ったら、それなら雑誌もやめるというんで、そうなったわけです」[2]。なお、鏡明は『マンハント』が『ハードボイルド・ミステリィ・マガジン』と改題してわずか半年で姿を消したという事実をもって「じつはマンハントが何であったかを端的に示している。それはハードボイルドのミステリーのマガジンではなかったのだ」という見解を示している[3]。鏡によれば、『マンハント』は「ミステリー雑誌以上のもの」であり、実態としてはアメリカの大衆文化を日本に紹介するカルチャー・マガジンだったという(「当事者たちの証言」参照)。

そんなカルチャー・マガジンの誌面を飾った最長連載は植草甚一の「夜はオシャレ者」。最多登場作家はエヴァン・ハンターだった。都筑道夫訳の「探偵カート・キャノン・シリーズ」が人気を集めた[4]。同シリーズは都筑道夫による贋作(パスティーシュ)が書かれるほどの人気だった[5]

特徴と影響

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『マンハント』日本語版は本国版MANHUNTと違って当初はカバーでもモンドリアンふうの抽象画(秋保正三作)を使用するなど、至ってスタイリッシュな装いだった。しかし、1959年5月号からはヌード・ピンナップが附録に付くようになり[注 2]、徐々に男性誌のようなテイストを醸し出すようになる。さらに1962年になると女性をフィーチャーした写真がカバーを飾るようになり、いよいよ男性誌ふうのテイストが強まった(ただし、女性をフィーチャーした写真がカバーに使われたのは1月号、2月号、9月号だけ)。編集長の中田雅久はヌード・ピンナップを附録に付けるようになった理由について「結局エロティックなもの、セックスの本で売り出してきた本屋さんですから、そういうものが売れるんだという固定観念があるんです。お色気もある雑誌だからって言って版権取ってもらったんだから、そういう顔も立てなきゃいけない」と語っており[2]、発行元である久保書店への配慮があったことを明かしている[注 3]

また『マンハント』の特徴の1つに翻訳が必ずしも原文に忠実ではなかった点が挙げられる。これは意図的なもので、創刊号の「マンハンタアズ・ノート」(編集後記)では「この雑誌は乙にとりすましたホンヤク雑誌じゃありません。珍訳誌、超訳誌とでも申しましょうか、アメリカ人が〈マンハント〉を読んでエキサイトするのと同じくらい、面白く読んでいただけるようにしました」とその意図を明かしている。そのため、誌面にはさまざまな俗語や造語が飛び交った。女性を「スケ」「なおん」と表現するのに飽き足らず、遂には「お女性」というセクシズムすれすれの呼称も編み出した。後に中田耕治はこうした『マンハント』での経験を振り返って「(『マンハント』は)文体の修練の場だった。確実にぼくの一部分が培われたと思う。スタイリストの都筑道夫に負けたくなかったので、独自の文体をつくろうとした」と語っている[6]

一方、『マンハント』がその後の文化シーンや出版業界に与えた影響ということで言えば、当時、まだ一般には知られていなかった多くの才能を世に送り出したことが挙げられる(「主な日本人寄稿者」参照)。『マンハント』に集った顔ぶれの多彩さについては当事者である中田雅久も「思い返せばなんであのとき、あれほどのユニークなタレントが、あんな小さな雑誌の手の届くとこに、いっぱいいたのだろう。可能性に満ちた時代だったのかしら」と回顧している[6]くらいで、ある種の文化的奇観を呈していると言っていい。まだプロデビュー前から「読者座談会」[注 4]に参加していた湯川れい子などは「勉強させてもらったし、あちこちに紹介してもらった。〈マンハント〉のおかげで現在の自分があると思う」と語っており[6]、『マンハント』をゲートウェイとして1960年代の文化シーンに飛び込んだ才能は数知れない。その貴重な媒介の役割を果たしたという意味で『マンハント』がその後の文化シーンや出版業界に与えた影響はことのほか大きい。

当事者たちの証言

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『マンハント』をめぐっては、自身が寄稿者だった人物や読者だったという人物からさまざまなコメントが発せられている。

『マンハント』がプロの文筆家としてのキャリアの振り出しだった小鷹信光[注 5]は『マンハント』という雑誌を総括して次のように語っている。

〈マンハントとは何だったのか?〉とたずねられても、雑誌はモノじゃないんだから、言葉で説明することはできない。大資本をバックにした商業雑誌ならいざしらず、リトル・マガジンというのは生きている。だから、キザっぽくいえば、〈マンハント〉は雑誌というものじゃなく、一つの漠然としたフェノメノンだったのだ。編集者と翻訳者やコラムニストが徹底的にハメをはずし、こわいもの知らずに悪のりして、それに一万人か二万人の読者が加担して六年間をたのしくすごした一現象だったのだ。 — 小鷹信光、「『マンハント』がおもしろかった頃…」(『宝島』1978年9月号)

また『マンハント』を中学生時代に読み始めたという荒俣宏は『マンハント』について「戦後カストリ雑誌の低俗さを引きずりつつも、めくるめくアングラ文化の胎動を予感させた、早すぎた雑誌だった」としつつ、次のように『マンハント』への思い入れを綴っている。

 戦後の団塊世代が十四、五歳のなまいき盛りを迎え、そろそろ軽度の毒でも試してみるかというとき、ちょうどタイミングよく光り輝いたのが、愚生にとってはこの『マンハント』なのだった。中学三年から高校一年にかけて、思えば自分は大量の毒を呷らされた。というのも、この『マンハント』遭遇に前後して、もう一人の決定的アイドル澁澤龍彦を、愚生は発見してしまったからである。
 高校以来、本好きを自他ともに認める同世代の人びととは、ずいぶん親交をもったけれど、愚生は澁澤体験か『マンハント』体験かのどちらかを経なかった人の青春を、信用しないことにしている。 — 荒俣宏、『稀書自慢 紙の極楽』(中央公論社)

その荒俣と同学年だった鏡明も「今、思うと、マンハントはぼくにとって最も大事な雑誌であったように思う」としつつ、次のように独自の『マンハント』観を披露している。

 ぼくという一人の読者の目からすると、マンハントは、ミステリー雑誌以上のものだった。
 ぼくが、そこで読んだのは、アメリカの文化であり、言語であり、風俗であり、音楽であり、日常であった。それは、アメリカの大衆文化の教科書でさえあったように思う。 — 鏡明、「マンハントとその時代」(『フリースタイル』vol.3)

一方、稲葉明雄は「〈マンハント〉だけがどうということはない。たくさん手がけた仕事の母胎にはなったが、とくにこの雑誌に思いこみはない」。また片岡義男も「一冊の雑誌にすぎない。自分の方向づけとは関係なく適当にふざけさせてもらった。注文にこたえる練習をした感じ」と、いずれも仕事の場以上のものではなかったという認識を示している[6]。なお、片岡義男も小鷹信光同様、『マンハント』がプロの文筆家としてのキャリアの振り出しで、早稲田大学の先輩でもある小鷹が片岡を編集部に売り込んだという[7]

主な日本人寄稿者(五十音順)

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、実売は3万部だったことを後に編集長の中田雅久が新保博久のインタビューに答えて明かしている。
  2. ^ 鏡明は『マンハント』に興味を持ったきっかけはこのヌード・ピンナップだったことを明かしている。「とにかく、最初は、ヌード目当て、何が書かれているか、何の雑誌なのか、まったく気にもしていなかった。/そして、小説を、もったいないので読み始めて、完全にはまってしまったのだ。情けないが、ぼくのハードボイルド遍歴のはじまりは、ヌード・ピンナップなのだ」(「マンハントとその時代」)。
  3. ^ ピンナップにしたヌード写真は銀座の代理店で「安いの安いのをって買ってきた」という。
  4. ^ 1960年2月号。名義は「湯川礼子」。なお、この座談会には小鷹信光も本名の「中島信也」名義で参加していた。
  5. ^ 小鷹信光と『マンハント』の関りの最初は誤訳を指摘した投書という。また初登場となった1961年1月号の目次では「小鷹信之」と誤植されていた。「私の字が乱雑だったために起きた誤植だったのだろう」と小鷹は『私のハードボイルド:固茹で玉子の戦後史』で振り返っている。

出典

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  1. ^ 鏡明『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた』フリースタイル、2019年、pp.345-346
  2. ^ a b c d 新保博久『ミステリ編集道』本の雑誌社、2015年5月。 
  3. ^ 鏡明「マンハントとその時代」『フリースタイル』、フリースタイル、2006年1月。 
  4. ^ 木本至『雑誌で読む戦後史』新潮社、1985年8月。 
  5. ^ 都筑道夫『酔いどれ探偵』新潮文庫、1984年1月。 
  6. ^ a b c d 小鷹信光「『マンハント』がおもしろかった頃…」『宝島』、JICC出版局、1978年9月。 
  7. ^ 小鷹信光、片岡義男「特別対談 そこにあったアメリカ」『ミステリマガジン』、早川書房、2008年10月。 

参考文献

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外部リンク

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  • 小鷹信光PBスクラップブック※小鷹信光が『マンハント』に連載した「行動派探偵小説史」「行動派ミステリィの顔」「行動派ミステリィのスタイル」「行動派ミステリィの作法」がテキスト化されている。
  • マンハント・ファイル※『マンハント総目次・索引』のウェブ版