マロツィア
マロツィア Marozia | |
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ウーゴとマロツィアの結婚(Francisco Bertolini, Historia de Romaより) | |
出生 |
890年頃 |
死去 |
932/7年 ローマ |
配偶者 | スポレート公アルベリーコ1世 |
トスカーナ侯グイード | |
イタリア王ウーゴ | |
子女 |
ヨハネス11世 アルベリーコ2世 |
父親 | トゥスクルム伯テオフィラット |
母親 | テオドラ |
マロツィア(Marozia、890年頃 - 932/7年)は、10世紀はじめにローマとローマ教皇国の実権を握った女性。父はローマの貴族トゥスクルム伯テオフィラットで、母はテオドラ。
テオドラとマロツィアはそれぞれ教皇の愛人であったとされ、マロツィアが教皇セルギウス3世との間に生んだ子が教皇ヨハネス11世とされる。トゥスクルム家はおおむね10世紀前半の50年間教皇庁を事実上支配し(その後半はマロツィアの子であるスポレート公アルベリーコ2世による支配)、複数の親族を教皇に立てた。この時代の教皇庁の政治状況は、ポルノクラシー(娼婦政治)と呼ばれた。
生涯
[編集]ローマで最高の美女と言われたマロツィアは、教皇セルギウス3世の愛人となり、教皇の子供とされる男児(のちの教皇ヨハネス11世)を産んだ。のちにスポレート公アルベリーコ1世と結婚し、男児を産んだ(のちのアルベリーコ2世)。926年にアルベリーコ1世が死ぬと、トスカーナ侯グイードと再婚しようとするが、教皇ヨハネス10世に反対されたため、928年に教皇を逮捕させ獄死させた。グイードと2度目の結婚を行い、931年に自分の息子をヨハネス11世として教皇に就けたが、グイードはすぐに死亡する。マロツィアは「イタリア王」の称号を持つプロヴァンスのウーゴ (アルルのユーグ) と3度目の結婚をしようとするが、ウーゴはグイードの異父兄(どちらも母親がロタール2世の娘ベルタ)であったため、再婚は禁じられていた。マロツィアは、グイードとウーゴは実の兄弟ではないとでっちあげ、932年に息子のヨハネス11世の祝福のもとにウーゴとハドリアヌス帝の墓室で結婚式を行い、サンタンジェロ城を新居とした。
しかし、息子のアルベリーコ2世はマロツィアとウーゴに反旗をひるがえし、結婚式の最中にサンタンジェロ城を攻撃した[1]。ウーゴはローマから逃れたが、マロツィアは牢獄に囚われた。ウーゴは何度もローマを攻撃したが、アルベリーコ2世はローマを守り抜き、マロツィアは獄死した。
アルベリーコ2世は20年間ローマを支配し、954年に死んだ。アルベリーコ2世の死後、その息子がヨハネス12世として教皇に就いた。マロツィアの息子だけでなく、孫も教皇となったことになる。
系図
[編集]テオフィラット1世 トゥスクルム伯 | テオドラ | クレッシェンティウス家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウーゴ イタリア王 | アルベリーコ1世 スポレート公 | マロツィア | セルギウス3世 119代教皇 | テオドラ | ジョヴァンニ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルダ | アルベリーコ2世 ローマ支配者 | ダヴィド (デオダトゥス) | ヨハネス11世 125代教皇 | クレッシェンティウス1世 (デ・テオドーラ) | ヨハネス13世 133代教皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
グレゴーリオ1世 トゥスクルム伯 | ヨハネス12世 130代教皇 | ベネディクトゥス7世 135代教皇 | クレッシェンティウス2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベネディクトゥス8世 143代教皇 | アルベリーコ3世 トゥスクルム伯 | ヨハネス19世 144代教皇 | ジョヴァンニ (クレッシェンティウス3世) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベネディクトゥス9世 145,147,150代教皇 | グレゴーリオ2世 トゥスクルム伯 | ピエトロ | オクタヴィアーノ | グイード | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベネディクトゥス10世 対立教皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 瀬原、p. 71
参考文献
[編集]- 藤沢道郎 『物語イタリアの歴史Ⅱ』 中公新書、2004年、p48-68
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年