マルグリット3世 (フランドル女伯)
マルグリット3世 Marguerite III | |
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フランドル女伯 ブルゴーニュ女伯 | |
在位 | 1384年 - 1405年 |
出生 |
1350年4月13日 フランドル伯領、マール城 |
死去 |
1405年3月16/21日(54歳没) ブルゴーニュ領ネーデルラント、 アルトワ伯領、アラス |
埋葬 | ブルゴーニュ領ネーデルラント、リール、サン=ピエール教会 |
配偶者 | ブルゴーニュ公フィリップ1世 |
ブルゴーニュ公フィリップ2世 | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ダンピエール家 |
父親 | フランドル伯ルイ2世 |
母親 | マルグリット・ド・ブラバン |
マルグリット・ド・ダンピエール(Marguerite de Dampierre, 1350年4月13日 - 1405年3月16日/3月21日)は、フランドル女伯(マルグリット3世、在位:1384年 - 1405年)及びブルゴーニュ女伯(マルグリット2世、在位:同)。アルトワ女伯、ルテル女伯、ヌヴェール女伯の称号も有した。
生涯
[編集]フランドル伯ルイ2世とブラバント公ジャン3世の娘マルグリットの長女として生まれた。
1357年、7歳でブルゴーニュ公フィリップ1世(ウード4世の孫で又従兄に当たる)と結婚した。しかしフィリップ1世は4年後に15歳で死去した。その後、ブルゴーニュ公位はフランス王ジャン2世のものとなった。1363年、ジャン2世は息子フィリップをブルゴーニュ公(フィリップ2世、豪胆公)に封じた(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)。
父のルイ2世は、明らかにイングランド寄りの姿勢を見せ、マルグリットとイングランド王エドワード3世の三男ケンブリッジ伯エドマンド(後のヨーク公)との婚約を受け入れていた[1][2]。フランドルは封建制度上はフランス国王に属していたが、経済的には、英本土(ブリテン島)との商品経済関係が成立し、イングランドに従属していた[1]。
当時は英仏百年戦争の渦中であり、マルグリットが将来的に継承権をするフランドルのみならず、アルトワ、ニヴェルネ、ルテル、フランシュ=コンテ等の地域が、イングランド側に渡ることは、フランスとしては阻止しなければならない事態だった[3]。そこで、フランス王シャルル5世(賢王)は、マルグリットとエドマンドが近親であることを理由に、ローマ教皇ウルバヌス5世に働きかけ、婚姻の許可を取り消させた[4][2]。
父ルイは、イングランドからの圧力も背景に、フィリップ豪胆公との縁組に抵抗した[5]。しかし、カペー王家出身の祖母マルグリット・ド・フランスが現在のヴァロワ王家側に立ち、ルイを説得した。こうして1369年6月19日、マルグリットとフィリップ豪胆公は、ヘント(仏:ガン)で盛大な婚礼を挙げた[6]。
1384年の父ルイの逝去により(兄弟らは既に早世していた)、フランドル伯位はマルグリットと夫フィリップが相続した。
子女
[編集]2度目の夫ブルゴーニュ公フィリップ2世との間に以下の子女をもうけた。
- ジャン(1371年 - 1419年) - ブルゴーニュ公「無怖公」
- シャルル(1372年 - 1373年)
- マルグリット(1374年 - 1441年) - 下バイエルン=シュトラウビング公・エノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯ヴィルヘルム2世妃
- ルイ(1377年 - 1378年)
- カトリーヌ(1378年 - 1425年) - オーストリア公レオポルト4世妃
- ボンヌ(1379年 - 1394年)
- アントワーヌ(1384年 - 1415年) - ブラバント公。アジャンクールの戦いで戦死。
- マリー(1386年 - 1422年) - サヴォイア公アメデーオ8世妃
- フィリップ(1389年 - 1415年) - ヌヴェール伯。アジャンクールの戦いで戦死。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b カルメット 2023, p. 77.
- ^ a b 佐藤 2003, p. 102.
- ^ カルメット 2023, p. 78.
- ^ カルメット 2023, pp. 78–79.
- ^ カルメット 2023, p. 79.
- ^ カルメット 2023, p. 82.
参考文献
[編集]- カルメット, ジョゼフ 著、田辺保 訳国書刊行会、2000年5月1日。ISBN 978-4-3360-4239-2。
- 佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社〈集英社新書〉、2003年11月14日。ISBN 978-4087202168。
関連項目
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