マルグリット2世 (フランドル女伯)
マルグリット2世(1世) Marguerite II (I) | |
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フランドル女伯 エノー女伯 | |
マルグリット2世とダンピエール伯ギヨーム2世 | |
出生 |
1202年6月2日 |
死去 |
1280年2月10日(77歳没) |
配偶者 | アヴェーヌ領主ブシャール4世 |
ダンピエール伯ギヨーム2世 | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | エノー家 |
父親 | ラテン皇帝ボードゥアン1世 |
母親 | マリー・ド・シャンパーニュ |
マルグリット2世(Marguerite II, 1202年6月2日 - 1280年2月10日)は、フランドル女伯(在位:1244年 - 1247年、1251年 - 1278年)、エノー女伯(1世、在位:1244年 - 1246年、1257年 - 1280年)。父はラテン皇帝にも即位したボードゥアン1世、母はシャンパーニュ伯アンリ1世の娘マリー。姉にフランドル女伯兼エノー女伯ジャンヌがいる。
生涯
[編集]1202年に父が第4回十字軍に参加、出発した後に生まれた。姉ジャンヌと共に母の後見を受け、1204年の母の死後は叔父のナミュール伯フィリップ、次いでフランス王フィリップ2世が後見人となった。なお、父は1205年にブルガリア皇帝カロヤン=ヨハニッツァに敗れて獄死、もう1人の叔父アンリ(フィリップの弟)が次のラテン皇帝に即位している(フランドルとエノーはジャンヌが相続)。
1212年にアヴェーヌ領主ブシャール4世と結婚、ジャンを始め3人の子を産んだが、ローマ教皇から婚姻の無効を申し立てられ、1221年に結婚関係を解消、1223年にダンピエール伯ギヨーム2世と再婚、ギヨーム、ギーら5人の子を儲けた。1244年に姉が子の無いまま没したので、フランドル、エノーを相続した。
しかし、同年にギヨームにフランドルを継がせようとした為、ジャンが反発して紛争を始めてしまった(フランドル継承戦争)。1246年にルイ9世の調停を受けてフランドルはギヨーム、エノーはジャンが相続すると取り決められたが[1]、マルグリットは1247年にギヨームにフランドルを譲ったものの、ジャンにエノーを渡さなかった為に再び戦端が開かれ、1251年のギヨームの死、1253年のギーの敗北を経てジャンが名実共にエノー伯となった。
ところが、1257年にジャンが急死、マルグリットがエノー女伯に復位した(フランドル女伯もギヨームの死に伴い復位)。以後フランドルは1278年にギーに譲り、エノーは1280年のマルグリットの死後に孫のジャンに受け継がれていった。
子女
[編集]アヴェーヌ領主ブシャール4世との間に以下の3子をもうけた。
- ボードゥアン(1217年 - 1219年)
- ジャン1世(1218年 - 1257年) - エノー伯
- ボードゥアン(1219年 - 1295年) - ボーモン領主、娘ベアトリスはルクセンブルク伯ハインリヒ6世と結婚。
ダンピエール伯ギヨーム2世との間に以下の5子をもうけた。
- ギヨーム(1224年 - 1251年) - フランドル伯
- ジャンヌ(1225年頃 - 1245/6年) - 1239年にルテル伯ユーグ3世と結婚、1243年にバル伯ティボー2世と結婚
- ギー(1226年頃 - 1305年) - フランドル伯
- ジャン(1228年頃 - 1258年) - ダンピエール=シュル=ローブ、ソンピュイおよびサン=ディジエ領主、トロワ子爵
- マリー(1230年頃 - 1302年) - フランヌ女子修道院長(ドゥエー近郊)
脚注
[編集]- ^ 森田、p. 196
参考文献
[編集]- 森田安一 編 『新版 世界各国史14 スイス・ベネルクス史』 山川出版社、1998年
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