ボードゥアン・ダヴェーヌ
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ボードゥアン・ダヴェーヌ Baudoin d'Avesnes | |
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ボーモン領主 | |
在位 | 1191年 - 1244年 |
出生 |
1219年 オイジー(現在のビエーヴルの一部) |
死去 |
1295年4月10日 アヴェーヌ |
配偶者 | フェリシテ・ド・クシー |
子女 |
ジャン ベアトリス |
家名 | アヴェーヌ家 |
父親 | アヴェーヌ領主ブシャール4世 |
母親 | フランドル女伯・エノー女伯マルグリット2世 |
ボードゥアン・ダヴェーヌ(Baudoin d'Avesnes, 1219年 - 1295年4月10日)は、アヴェーヌ領主ブシャール4世とフランドル女伯・エノー女伯マルグリット2世の息子[1]。両親の結婚は無効とされたが、後にフランス王ルイ9世の勧めにより教皇はボードゥアンを嫡出であると宣言した。1246年、ボードゥアンはアパナージュとしてボーモンを与えられた。
生涯
[編集]ボードゥアンは兄ジャン1世とともに、母の再婚で生まれた異母弟ギヨーム2世と生涯争った。ボードゥアンはトラズニーで行われた馬上槍試合においてギヨーム2世が死去した事故に関係があったといわれた。ペロンヌの勅令および兄ジャン1世の死の後、ボードゥアンは母マルグリットと和解し、マルグリットはボードゥアンを雪辱戦のためにナミュールへ送った。
1287年、ボードゥアンはダンケルクとヴァルヌトンをフランドル伯ギー・ド・ダンピエールに売却した。また、ボードゥアンは年代記作者としても知られており、『Chronique Universelle』を著した。
中世研究家シャルル・ヴェルリンデンは、外交官ボードゥアン・ド・エノーをボードゥアン・ダヴェーヌと同一人物としている[2]。
結婚と子女
[編集]1243年、ボードゥアンはヴェルヴァン領主トマ2世・ド・クシーの娘フェリシテ(1220年 - 1307年)と結婚し[1]、以下の子女をもうけた。
- ジャン(1283年没) - 初代ペンブルック伯ウィリアム・ド・ヴァランスの娘アグネスと結婚[1]。アグネスはスコットランド王ジョン・ベイリャルの兄ヒューの未亡人であった。
- ベアトリス(1321年没) - ルクセンブルク伯ハインリヒ6世と結婚[3]
脚注
[編集]- ^ a b c Pollock 2015, p. 167.
- ^ Giebfried 2014, p. 9.
- ^ Gades 1951, pp. 102–103.
参考文献
[編集]- Gades, John A. (1951). Luxemburg in the Middle Ages. Brill
- Giebfried, John (2014). Crusader Constantinople as a Gateway to the Mongol World. Saint Louis Press University 18 December 2017閲覧。
- Pollock, M. A. (2015). Scotland, England and France After the Loss of Normandy, 1204-1296. The Boydell Press