マリー・フランソワ・サディ・カルノー
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マリー・フランソワ・サディ・カルノー Marie François Sadi Carnot | |
任期 | 1887年12月3日 – 1894年6月25日 |
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出生 | 1837年8月11日 フランス王国、リモージュ |
死去 | 1894年6月25日(56歳没) フランス共和国、リヨン |
政党 | 穏健共和派 |
配偶者 | セシール・デュポン=ワイト |
マリー・フランソワ・サディ・カルノー(Marie François Sadi Carnot, 1837年8月11日 - 1894年6月25日)は、フランスの政治家。ニコラ・レオナール・サディ・カルノーの甥。第5代大統領(第三共和政)。在職中に暗殺された。
政治家ラザール・イポリット・カルノーの息子として生まれた。エコール・ポリテクニークと国立土木学校で技術者教育を受け、官僚となった。1871年にセーヌ=アンフェリウール県(現セーヌ=マリティーム県)知事となり、まもなく国民議会議員となった。1880年には公共事業大臣となった。
1887年の選挙で、対立候補のジュール・フェリーに勝利して、大統領に選ばれた。就任早々、政界を震撼させたブーランジェ将軍事件を乗り切った。その後在職中にはフランス革命百年祭、パリ万国博(1889年)などの祝賀行事があったが、1892年にはまた政治スキャンダル・パナマ事件が持ち上がり、アナーキストによるテロも激化した。
1894年6月24日、リヨンで演説後にイタリア人アナーキスト、サンテ=ジェロニモ・カゼリオに刺され、翌6月25日に死亡した(サディ・カルノー暗殺事件)。パリのパンテオンに埋葬されている。