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マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア
Maria Clotilde di Savoia
サヴォイア家
1859年
在位 1859年1月30日 - 1891年3月17日

全名 Ludovica Teresa Maria Clotilde di Savoia
称号 サヴォイア公妃マリー・クロティルデ王女殿下 (1843-1859)
マリー・クロティルデ・ボナパルト皇太子妃殿下 (1859-1911)
敬称 ケキーナ
サヴォイア公妃
シスター・マリー・カテリーネ
出生 (1843-03-02) 1843年3月2日
サルデーニャの旗 サルデーニャ王国トリノ
死去 (1911-06-25) 1911年6月25日(68歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国モンカリエーリ
埋葬 イタリア王国の旗 イタリア王国トリノスペルガ聖堂
配偶者 ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト
子女 ヴィクトル
ルイ
マリー・レティシア
家名 サヴォイア家
父親 イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
母親 マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ
宗教 カトリック
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ルドヴィカ・テレーザ・マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイアイタリア語: Ludovica Teresa Maria Clotilde di Savoia, 1843年3月2日 - 1911年6月25日)は、サヴォイア家の王女。イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ハプスブルク家の大公女マリーア・アデライデの娘である。フランス語名はルイーズ・テレーズ・マリー・クロティルド・ド・サヴォワLouise Thérèse Marie Clotilde de Savoie)。

マリーア・クロティルデは敬虔なカトリック教徒として知られ、ローマ教皇ピウス12世は1942年7月10日にクロティルデを神のしもべとすることを宣言した[1]

生涯

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幼少期と青年期

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幼少期のクロティルデ(右端)と弟妹のウンベルトアマデオオッドーネマリア・ピア(1848年)[注 1]
1852年当時のトリノ王宮(1852年の版画)この頃フランスでは第二帝政が始まった。
モンカリエーリ城の航空写真(2005年撮影)クロティルデは幼少期からここで長い時間を過ごし、のちに終の棲家とした。

マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイアは1843年3月2日にトリノ王宮ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(当時は皇太子)とマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナの長女として生まれた。その後、夫婦には他に七人の子供が生まれた。それはウンベルト(1844年 - 1900年)、アマデオ(1845年 - 1890年)、オッドーネ・マリア・デ・サヴォイア(1846年 - 1866年) マリア・ピア・デ・サボイア(1847年 - 1911年)、カルロ・アルベルト(1851年生まれ)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ(1852年に生後間もなく死去)と彼と同名のもう一人(1855年に生まれ、数年後に死去。)である。アデライデは育児を乳母や看護師に任せず、カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイアの妻で義母のマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナとともに娘とモンカリエーリ城で長い時間を過ごした。クロティルデは幼い頃から穏やかで決断力のある性格を示し、祈ることを学び、カトリックの教えに基づいた生活スタイルを築いた[3]

クロティルデは周囲からChechina(ケキーナ)という愛称で呼ばれ、貴族としての道を歩み始めた。彼女の日課は厳格に定められ、高名な教授が選んだ家庭教師による授業が行なわれ、精神修養に加えて、余暇には彼女が特に好んだ乗馬などを行なった[4]。これらの日課を送るにあたっては、家政婦のパオリーナ・ディ・プリオラの支えもあった。後年、クロティルデはプリオラの曾孫娘の一人に会ったときのことを懐かしく思い出している[5]。その一方で、クロティルデは最初の秘蹟を受ける準備を注意深く進めていた。これについては聖体拝領式の前月に書かれた三冊のノートが残っている。それらを読むと、すでに彼女の人格はしっかりと形成されており、人生のあらゆる局面において神を優先しようと決意していたことが分かる。一冊目のノートには、以下に抜粋するように10歳の少女にしては珍しく王女としての敬虔な態度があらわれている。

(私は)小さな試練に身を投じます:自分が不快に思うことを愛想よくやり遂げています - 毎日決まった時刻に神の存在を思い出すこと、小さな試練を受け入れること、そして常に貧しい人々のために私の楽しみの一部を放棄することです[6]

1853年6月11日、ストゥピニジ教区教会にて聖体拝領堅信の合同式典がジェノヴァ大司教のアンドレア・シャルバスによって執り行われ、同時に彼女の弟のウンベルトにも秘蹟が授けられた[7]

間もなく、クロティルデ自身にもいつか来るであろうとひそかに予期していた試練が訪れる。1855年には日々の喜捨行為に加えて四つの別れがあった。1月12日には祖母のマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナが死去し、その葬儀が行なわれた16日の夜に母のアデライデが虫垂炎を発症して床に伏し、クロティルデが最期の別れを告げた二日後に世を去った[注 2]。さらに、2月11日には叔父のジェノヴァ公フェルディナンド・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイアが死に、5月には弟のヴィットーリオ・エマヌエーレが夭折した[9]

クロティルデは、日記や当時の書簡、のちに書かれた回想録などからわかるように、信仰という武器で苦しみに立ち向かい、より一層信仰心を深めた。その後もドミニコ会修道士のジョヴァンニ・トンマーゾ・ギラルディ、モンドヴィ司教のチェーザレ・ロッリ、修道院長のスタニスラオ・ガゼッリらの協力を得て精神修養を続けた[10]。同時に、クロティルデはそのマナーの良さでも賞賛された。1856年5月には、クリミア戦争の渦中にあったサヴォイア家とロシアとの関係改善のためにトリノを訪れたアレクサンドラ・フョードロヴナレセプションで、クロティルデはサヴォイア家のファーストレディとしての責務を負った。さらに、1857年12月にはロシア皇帝アレクサンドル2世の弟であるロシア大公コンスタンチン・ニコラエヴィチの訪問の際にも同じ役目を果たさなければならなかった。クロティルデは、のちにこの二度目の体験について、随行していたニコラエヴィチの幼い息子ニコライ・コンスタンチノヴィチについて以下のような同情的なコメントを残している。

帰りがけに、わたしたちの親愛なる友人はドイツに向かう途中で自分の名前が載った親族のアルバムを見せてくれました...(中略)彼はとても優しい好人物でした[11]

結婚

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ナポレオン・ジェロームとクロティルデ(1904年の出版物より)
1859年に発行された結婚記念コイン[12]

1858年、サルデーニャ王国首相のカミッロ・カヴールピエモンテ州の外交政策をたくみに運営していた。当時のフランス皇帝ナポレオン3世リベラリストであり、イタリアのリソルジメントに理解を示していたため、カヴールはフランスとの同盟形成に力を注ぎ、7月21日に二人はヴォージュ県の温泉保養地として知られるプロンビエール=レ=バンで秘密裡に会談し、有名なプロンビエールの密約を締結した。

ナポレオン3世はサルデーニャに対する援助の見返りとして、ニースサヴォワ割譲を要求したが、これはのちに第二次イタリア独立戦争への引き金となった。さらに皇帝はいとこのナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(ナポレオン・ジェローム) が統治する中央イタリア王国への援助を約束した。しかし、これを実現するためにはナポレオン・ジェロームとサヴォイア家の王女との縁組が必要であり、その判断は花嫁候補のクロティルデに委ねられた[13]。しかしながら、当時クロティルデは15歳であり、イタリアで結婚が許される16歳になるまで一年間待たなければならなかった。

皇帝はこの縁組を協定の必須条件とはしなかったが、カヴールにはこれを拒否すればどれほど多くの支援が反故になるか容易に想像できた[14]。ナポレオン・ジェロームは花嫁候補よりも21歳年上であったが、それだけではなく、この縁組を「ゾウガゼルの結婚」と揶揄する者もいるほど、二人の人生観はまったく異なっていた。ナポレオン・ジェロームは若い頃から自由を謳歌しており、性格は謙虚で陽気だったが、しばしば束の間の恋愛にのめりこんでカトリックの戒律から程遠い生活を送り、むしろ戒律に反感を抱いていた。彼の政治的な立場は反教皇派で民主的であり、周囲からは「赤い王子」、「プロン=プロン」(Plon - Plon)などと呼ばれていた。一方、クロティルデは王女としての義務感と、祖国と父親を救うという使命感にあふれていた。

カヴールはイタリアに戻るとヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会談し、彼にプロンビエールの協定の詳細について花嫁候補に説明する任務を委任した。父親から事の次第を聞いたクロティルデはガレッシオカゾット王宮からカヴール宛てに書簡を送り、この縁組に対する生理的な嫌悪感を表明しつつ、その政治的な重要性を理解し、キリストへの信仰を放棄することを非常に丁寧な筆致でしたためた。

わたしはもう何度も考えました。しかし、ナポレオン王子との結婚は非常に深刻な問題で、なによりも私の考えと正反対です。親愛なる伯爵、それが我が国の将来にとって、そしてなによりも私の父である国王にとって有利となる可能性があることも私は知っています。...私はもう一度考えてみます。そして、主が誤りなき救いで私を導いてくださることを願っています。今のところはすべてを主の手にゆだねているので、私には何も決めることができません[15]
ピエモンテ州ガレッシオにあるカゾット王宮(2021年撮影)ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が夏季の狩猟離宮として使用した。

クロティルデは8月をカゾット王宮で過ごし、返答について瞑想し、9月にラッコニージに戻ると無宗教で世俗にまみれたナポレオン・ジェロームの魂を神の許に帰すために結婚を承諾するという最終決断を下した。この選択は政治的な理由によって条件付けられたものであったが、それ以上にカヴールとナポレオン3世、祖国がそれぞれ求めるものを意識して殉教的に遵守することにより、神の御心を実現するという確信から生み出されたものであった。後年、クロティルデはこの決断は他者から強要されたものではなく、「私はナポレオン・ジェロームが欲しかったから結婚した。」と打ち明けている[16]

しかし、結婚を承諾するにあたって、クロティルデはひとつだけ条件を出した。それはバージンロードを歩む前に婚約者に会うというものだった。ナポレオン・ジェロームの訪問は延期されたため、その間、クロティルデはラッコニージを離れて街に戻ることができた。将来の配偶者との会見は1859年1月16日にトリノで行われ、クロティルデが提示した最後の条件が満たされたことで、差し迫った結婚式が公式のものとなった。婚約発表は15歳の少女の命が支配者の政治的陰謀を満足させるための犠牲となったことに憤慨したトリノ王宮の廷臣たちの抗議運動を引き起こした。イタリアの貴族で女流作家のコンスタンツァ・ダゼーリオは息子のエマヌエーレに宛てた書簡で、すべての階層がこの縁組を非難していることを表明している。

貴族たちは劇場の記念公演とカヴールが主催する舞踏会を欠席することでそれを表明しました。

しかし、このデモの後で群衆は劇場と宮廷に向かった。しかし、それは国王のために、そして何よりも国民が敬愛しているクロティルデの機嫌を損なわないようにするためだった[17]

1859年1月23日、フランス元帥アドルフ・ニール将軍は、花嫁の父親に対して正式な結婚の要請を行ない、1月28日にはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、ナポレオン・ジェローム、ナポレオン3世の三者会談でプロンビエール協定の調印が行なわれた。1月30日の日曜日、グアリーニ礼拝堂にて、ヴェルチェッリ大司教区のアレッサンドロ・ダンジェンヌ司教によって結婚式が行なわれ、カザーレ・モンフェッラートノーリピネローロスーザの各教区教会でも挙式された。クロティルデは正式に王冠を脱ぎ、持参金として50万リラの現金、30万リラの宝石、10万リラの衣装を持参した[18]。ナポレオン3世はこのヨーロッパ最古の王朝のひとつとの縁組みで、家名を高めることもできた。

サヴォイア家の結婚式における恒例行事として、神聖な儀式に続いてトリノ市庁舎での豪華なレセプションと盛大なパーティーが催された。トリノの街路ではパレードやショーが行なわれ、トリノやフランスの貧しい人々に多額の義援金が寄付された。新婚夫婦は結婚式当日中にトリノを発ち、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、カヴール、ラ・マルモラは汽車でジェノヴァに向かい、夕方にはカルロ・フェリーチェ劇場でのガラ・コンサートに家族とともに出席し、観客から熱狂的に迎えられた。ランタンの下で二晩眠ったあと、クロティルデは父親に別れを告げ、マルセイユ行きのフリゲート「オルタンス王妃号」に乗り、フランスのパリに向かった。2月4日の午後、クロティルデは宮廷列車でプロヴァンスを出発し、翌朝フォンテーヌブローに着いた。ここでクロティルデは義父のジェローム・ボナパルトと義妹のマチルド・ボナパルトに会い、ついに同日の夜にパリに到着し、テュイルリー宮殿で皇帝夫妻の歓迎を受けた[19]

パリにて

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フランスの画家、エルネスト・エベールによる全身肖像画(1860年)
1859年2月27日、テュイルリー宮殿で新婚夫婦を歓迎するフランス皇帝夫妻

クロティルデの侍女で幼少期からの友人でもあるヴィラマリーナ伯爵夫人は、トリノでの暮らしとはかけ離れた生活様式に耐えられず、第二帝政下で歓楽を愛する煌びやかな大都市をすぐに去った。クロティルデにとっても、自分の宗教的な精神とはほとんど、むしろまったく共通点のない現実に直面して環境への適応は困難をきわめ、当初は市民の冷淡な対応にも複雑な想いを抱いた。クロティルデは以下の「敬虔な」フランス人女性で構成された新しい宮廷を任された[20]。それはオルタンス・テイヤー夫人、ベルトラン伯爵、ロシエール男爵夫人、クレルモン・トネール夫人[21]という面々である。クロティルデは夫の理解を得られぬまま、宮廷の華やかさとは裏腹にチャリティー活動に専念しながらフランスの大都市に住んだ。謙虚でありながら誇り高く、王族出身ではないウジェニー・ド・モンティジョが政府の高官との付き合いを減らすように提案し、「あなたにとっては大変ではないですか?」と申し出たとき、クロティルデはこう答えた「マダム、あなたはわたしが宮廷で生まれ、小さい頃からこういうことには馴れていることを忘れていますね[22]。」と、やがて消えるであろうスペイン出身の皇后の自分に対する反感を示した[注 3]

一方、ナポレオン・ジェロームは当初から公式のレセプションや自由に使える私的なアパルトマンで夜を過ごし、パリがふんだんに提供する社交界を利用して妻を騙すことをためらわなかった。ナポレオン・ジェロームは、若い義理の娘を可愛がっていた父親と妹のマチルドの叱責[24]にも耳を貸さず、またクロティルデが義父とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、カヴールを早く安心させたい一心で努力してきたにもかかわらず、独身時代から続けてきた恋愛遊戯を再開した[25]。それにもめげず、クロティルデは3月26日付けの友人宛ての書簡に「すばらしい」、「とても幸せ」と記している。彼女の信仰心はますます強固となり、自分が政治の駒にされている現状や夫の不貞にもなんとか耐え、毎日パレ・ロワイヤルにある私設礼拝堂でミサを聞き、定期的に病院で病人の世話をした。

パリにおけるクロティルデの生活は完全にキリスト教に捧げられていた。前に述べたように彼女は毎日私設礼拝堂でミサを聞き、病院に病人を見舞いに行き、「パレ・ロワイヤルの天使」と呼ばれた。家では夫との距離に悩まされたが、夫はめったに若い女性の孤独を破ることはなく、自分のアパルトマンにこもることを好んだ。1859年6月20日にクロティルデがアウグスティヌス会修道院「デ・オワゾー」で自分を「マリアの娘」として聖別してからはそこに定期的に通うようになり、その三日後には地元の聖心修道会教会に入会し、彼女が常に愛着を抱き続ける献身を開始した[26]

一方、ナポレオン3世の妃ウジェニーもカトリック教徒になることを望んでおり、クロティルデと反教皇的な立場を共有していたものの、クロティルデほど厳格なものではなく、両者の認識にずれがあった。しかし、クロティルデはナポレオン・ジェロームの側近から愛され、ジョルジュ・サンドエルネスト・ルナンなどの、反教皇的な立場を表明していたフランスの文化人からもその良識と資質を認められた[27] · [28] · [29]

1858年に発行された義父ジェローム・ボナパルトのコイン

1860年6月、クロティルデと円満な関係を築いていた義父のジェローム・ボナパルトの体調が悪化した。夫婦はヴィルジェニスにあるジェローム・ボナパルトの邸宅に赴き、クロティルデは毎日義父の看病をし、死の床にある義父が最上の治療を受けられるよう願った。クロティルデは夫の反対にもかかわらず、皇帝に聖職者の派遣を求める嘆願書を書き、6月23日に宮廷の司祭とパリ市の大司教がヴィルジェニスに到着した。妻の行為に夫は激怒し、クロティルデをヴィルジェニスから追い出して家族から遠ざけたが、義父は枢機卿大司教から死後の赦免と病者の塗油を受けることができた。クロティルデは24日にヴィルジェニスに戻り、義父の臨終に立ち会うことができたが、このとき、死の床にあるジェローム・ボナパルトは修道女が差し出した十字架に微笑みかけたと伝えられている[30]

アメリカへ

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1861年にボストン市長から贈られた、ボストン・ミュージックホール音楽祭の招待状[注 4]
母アデライデの墓を参拝するクロティルデと妹のマリア・ピア

その間、イタリアの政局は風雲急を告げ、海外でもアメリカで勃発した南北戦争がフランスの政界で注目を集めていた。1861年の春、ナポレオン・ジェロームは祖国に富をもたらそうとアメリカに向かった。クロティルデがヨットに乗ったというニュースを聞いた時、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、当初リスボンに行くはずだったこの旅行の予定外の展開に当惑を隠せなかった[31]。しかし、クロティルデは夫のアメリカ行きに同行したいと考えていた。夫の同意を得て、二か月を越える航海の末、クロティルデは夫とともにニューヨークに着いた。夫が北アメリカとカナダに向かっている間、クロティルデは一人でニューヨークに残った。

ニューヨークでクロティルデはふたたび定期的にミサに通うようになり、航海中は夫を刺激しないようにと控えていた祈りの日課を再開し、聖心修道院にも熱心に通った[32]修道院のマザーの回想には宗教的な実践行為を求めるクロティルデの心のゆとりと、一人で過ごすことへの願望が象徴されている。

一度、クロティルデが祝福を受けるためにわたしたちの聖心修道院に来ることを知った時、かなりの数の女性たちが礼拝堂に入ってきました...しかし、彼女たちがあらゆる方向を見回しても彼女たちはそれを見つけることができませんでした。ナポレオン王子には会えず、素朴な白いベールをかぶった王女が生徒たちの中に混じっていたので、彼女たちはとても落胆して帰っていきました[33]

このアメリカ滞在中、夫妻は移動手段に1856年に完成したばかりのイリノイ・セントラル鉄道を使用したが、この鉄道で訪れたシャンペーン郡の村はのちにクロティルデの姓を採ってサヴォイと名づけられている[34]。この旅行は、夫婦の親密感を深める貴重な瞬間となった。フランスに戻ったクロティルデは初めて妊娠したが、夫婦間の距離が離れるのにそう時間はかからなかった。ナポレオン・ジェロームは教会の世俗社会への影響力を弱めるように主張したが、世俗国家を受け入れられない貴族の女性たちはミサに行き、ナポレオン・ジェロームに改宗を懇願した。ナポレオン・ジェロームの身を案じる者は多く、多くの改宗を求める書簡を受け取った[35]

1862年7月18日、夫婦に第一子となるナポレオン・ヴィクトル・ボナパルトが生まれ、私的に洗礼を受けた。クロティルデは自分で子供を育てたかったが、10月には短期間子供を手離さざるを得なくなった。クロティルデの妹であるマリア・ピア・デ・サボイアがポルトガル王ルイス1世と結婚することとなり、結婚以来一度も帰っていなかったトリノに呼び戻されたのである。クロティルデは父親と兄弟、幼少期を過ごした場所と再会した。祝賀会の後、1863年にクロティルデは夫とともにエジプトに向かい、短い船旅を楽しんだ。クロティルデは聖地を訪れたかったが、その願いは叶わなかった[36]

帝政の崩壊

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1870年に撮影されたイタリア王室の写真。左から三番目の男女がナポレオン・ジェロームとクロティルデ。左から八番目がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

1870年、フランスが普仏戦争に敗北し、第二帝政が崩壊すると、クロティルデは祖国に帰るという父親の主張に背いてフランスに残ることを決意した。クロティルデはサヴォイア家の王女としての義務に基づき、この記事の末尾に掲げる彼女の生涯を要約するような有名な手紙で父親に返答した。ボナパルト家全員が逃亡し(ウジェニー皇后は変装して首都を脱出しイングランドへ逃亡。)、共和制が宣言された後、記章を携えたサヴォイア公クロティルデが9月5日に白昼堂々、無蓋馬車で単身パリを出発した。フランス共和国親衛隊 は彼女を讃えた。

セダンの戦いののち、ナポレオン王朝の衰退がパリで宣言され、皇后摂政クロティルデ王女は9月4日に逃亡し、国外退去を勧める人々の忠告を軽んじた。いつものミサを聞き、近くの病院で愛する患者たちをいつものように見舞った後、翌朝まで出発することを拒んだ。そして、通りに群がる人々に気づかれないように馬車の上げ込み窓を上げるようにという提案に対して、彼女は高貴な言葉で答えた。「恐怖とサヴォイア家は会ったことがありません。」そして、馬車の中で顔を高く掲げ、逃亡者としてではなく王女として反乱軍の街を出発した。誰も立ち向かおうとする者はおらず、確かに誰もがひれ伏していた。
ジュゼッペ・フマガリ[37]
翌日、フランス第二帝政の痕跡はすべて消え去った...。皇后については何も知られていなかった...。クロティルデ王女は王宮に残っていた。彼女は挑戦することも恐れることも望まない真の王女のように、急ぐことなく馬車に乗って最後に出発した。 — ピエール・ド・ラ・ゴルス著「第二帝国の歴史」第7巻(1905年)
クロティルデと三人の子供たち(1879年)[注 5]

その後もクロティルデは夫の放縦な行動に悩まされたが、夫はのちに彼女を捨てて経済的な苦境に立たされた。パリを出たクロティルデは1872年5月14日にシスター・マリー=カテリーネの名でドミニコ会の支部である聖ドミニコ信徒友愛会に入会した[38]。フランスを脱出した彼女はまずスイスのレマン湖畔の街、プランジャンにある美しい邸宅に住み[39]、1878年に父親が世を去るとイタリアに帰り、娘のマリー・レティシアとともにモンカリエーリ城に住んだ。周囲から「モンカリエーリの聖人」と呼ばれた彼女は、1911年6月25日にインフルエンザで死去し、グラン・マドレ・ディ・ディオ教会で葬儀が営まれ[40]、サヴォイア家の親族とともにスペルガ大聖堂に埋葬された。

クロティルデからヴィットーリオ・エマヌエーレ2世への書簡

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今は私が去るべきときではないと保証します...。

私が去れば、最悪かつ最もなげかわしい結果が生じるでしょう。

私は少しも怖くありません。私は自分が怖がることができるということさえ理解していません。なにかの? なぜ?

私の義務はできる限り長くここに留まることであり、たとえここにいて死んでしまったとしても、危険から逃れることはできません...。

結婚したとき、まだ若かったのですが、自分が何をしているのか分かっていましたし、もしそうするのであれば、それは自分が望んでいたからです。

私がここに留まることは、夫にとっても、子供たちにとっても、祖国にとっても良いことなのです。私の名前さえ名誉です。

親愛なるお父さん、このように表現させていただくなら、私の祖国の名誉です。十分に熟考した上で、これをすべてお話しします。

親愛なるお父さん、私を知っているでしょう、私が義務を果たさないことは何もありません。そして、もし今ここを離れたら、私は寂しくなるでしょう。私は世界のこと、富のこと、自分の立場のことなど気にしません。

親愛なるお父さん、私はそれを気にしたことはありませんが、最後まで自分の義務を果たしたいと思っています。他にどうすることもできなくなったら、私は去るつもりです...。彼女も離れようとしませんでしたし、兄弟たちも離れようとしませんでした。

私はただのサヴォイア家の王女ではありません!王子たちが国を離れることについて彼らが何と言っていたか覚えていますか?

国が危険にさらされているときに去ることは永遠に不名誉であり恥ずべきことだ。私が去ったら、私たちは隠れるだけです。

深刻な瞬間には、エネルギーと勇気が必要です。私にはそれらがあり、主はそれらを私にお与えになり、さらに与え続けています。

すみません、親愛なるお父さん、あまりにも自由に話してしまうかもしれませんが、私が感じていること、心の中にあることを話さないわけにはいきません。

お母さんが私を天から認めてくださると信じてください。 — マリーア・クロティルデ
サンタ・マリア・デッラ・スカラ教会の礼拝堂。左方にクロティルデの彫像が見える。(2021年撮影)

列福の大義

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1915年には彫刻家のピエトロ・カノニカが神秘的な法悦にひざまずくクロティルデの彫像を制作し、モンカリエーリのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会に設置した。1940年からはクロティルデの列福調査が始まり、1942年7月10日にはローマ教皇ピウス12世によってクロティルデは神のしもべとなった。現在も列福の大義は続いており、毎年6月25日に祝われている[41]

栄誉

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伝記映画・ドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ マリー・カテリーヌ・デ・プレドル・グラシス(Marie Catherine de Predl Grassis)画、トリノ王宮蔵[2]
  2. ^ 当時12歳のクロティルデは日記に以下のように記している。
    あの部屋は一生忘れられません。母は横たわっていて、母の最期の言葉が今でも耳に残っています[8]
  3. ^ 反目するどころか、ナポレオン3世はいとこの妻をすぐさま歓迎した[23]
  4. ^
    卿。市議会を代表し、つつしんで申し上げます。殿下、ナポレオン皇太子、クロティルデ王女を讃える公立学校の生徒による音楽祭にお越しくださいますよう、ご招待申し上げます。 — ジョセフ・M・ワイトマン市長。
  5. ^ 左から長男のナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト(1862年 - 1926年、のちのナポレオン5世)、次男のルイ(1864年 - 1932年)、一人娘のマリー・レティシア・ボナパルト(1866年 - 1926年、叔父であるアマデオ1世 (スペイン王)と結婚した。)、クロティルデ。

出典

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  1. ^ Serva di Dio Maria Clotilde di Savoia su santiebeati.it”. 2020年11月9日閲覧。
  2. ^ I FIGLI DI S.M. VITTORIO EMANUELE IN ETA' GIOVANILE. ritratto di figli di Vittorio Emanuele II di Savoia
  3. ^ C. Tessaro, Clotilde di Savoia, Milano 2012, pp. 14-15
  4. ^ C. Tessaro, cit., pp. 25-26
  5. ^ M. M. Favero, Maria Clotilde di Savoia-Napoleone, Torino 1943, p. 10
  6. ^ M. M. Favero, cit., p. 16
  7. ^ C. Tessaro, cit., p. 33
  8. ^ cfr. M. M. Favero, cit., p. 22
  9. ^ Per tutto il paragrafo cfr. C. Tessaro, pp. 38-41
  10. ^ C. Tessaro, cit., pp. 41-43
  11. ^ A. Biancotti, Maria Clotilde di Savoia, Torino 1955, p. 32
  12. ^ 裏面の画像
  13. ^ C. Tessaro, cit., pp. 53-54
  14. ^ C. Tessaro, cit., p. 62
  15. ^ M. Ragazzi, Clotilde di Savoia Napoleone, Assisi 1942, p. 70; la missiva fu scritta il 12 agosto
  16. ^ M. M. Favero, cit., p. 42
  17. ^ Gli eventi nelle lettere di Costanza D'Azeglio, a cura di Maria Luisa Badellino, http://www.uciimtorino.it/costanzadazeglio/ii_05_1859_parte_prima.pdf 20 january 2014閲覧。 
  18. ^ C. Tessaro, cit., pp. 81-83
  19. ^ C. Tessaro, cit., pp. 84-87
  20. ^ M. Ragazzi, cit., p. 92
  21. ^ C. Tessaro, cit., pp. 94-95
  22. ^ M. Ragazzi, cit., p. 90
  23. ^ C. Tessaro, cit., p. 88
  24. ^ A. Biancotti, cit., p. 125
  25. ^ Vedere le missive riportate in M- Ragazzi, cit., alle pp. 96-98
  26. ^ C. Tessaro, cit., p. 105
  27. ^ Le prince Victor Napoléon 1862-1926, Paris,‎ , p.42.
  28. ^ (de Witt 2007, p. 47).
  29. ^ ジョルジュ・サンドからナポレオン王子に宛てた手紙、1862年4月17日付け、「両世界評論」、第6巻、1923年8月15日刊。
  30. ^ C. Tessaro, cit., pp. 114-117
  31. ^ «Ma chiel-là a l'è matt! » (Ma quello è matto!), avrebbe esclamato Vittorio Emanuele in dialetto piemontese, riferendosi al genero; C. Tessaro, c it., p. 125
  32. ^ C. Tessaro, cit., pp. 126-127
  33. ^ A. Biancotti, cit., p. 131
  34. ^ Illinois Central Magazine. Illinois Central Railroad Company. (1922). p. 46. https://books.google.com/books?id=3WI3AQAAMAAJ&pg=PT46 
  35. ^ C. Tessaro, cit., pp. 129-130
  36. ^ C. Tessaro, cit., pp. 131-133
  37. ^ Cfr. anche Lodovico (Giuseppe) Fanfani, O. P., La principessa Clotilde di Savoia: biografia e lettere, Grottaferrata, 1913, p. 29.
  38. ^ (de Witt 2007, p. 48)
  39. ^ Remsen Whitehouse, p. 313.
  40. ^ Serva di Dio Maria Clotilde di Savoia su santiebeati.it”. 2020年11月9日閲覧。
  41. ^ The Mad Monarchist: Servant of God Princess Maria Clotilde of Savoy” (2011年6月22日). 2020年11月12日閲覧。
  42. ^ a b Mediterranean Nobility
  43. ^ a b Guía Oficial de España”. p. 159 (1904年). 8 march 2019閲覧。

参考文献

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  • Maria Ragazzi, Clotilde di Savoia Napoleone, Assisi, Pro Civitate Christiana, 1942
  • Michele M. Favero, Maria Clotilde di Savoia-Napoleone, Torino, L.i.c.e.-R. Berrutti & C., 1943.
  • Angiolo Biancotti, Maria Clotilde di Savoia, Torino, Società editrice internazionale, 1955
  • Tommaso Gallarati Scotti, Interpretazioni e memorie, Milano, Mondadori, 1960.
  • Valentino Brosio, Due principesse fra Torino e Parigi, Torino, Fògola editore, 1978 (biografie di Clotilde e della figlia Letizia Bonaparte).
  • Giulio Vignoli, Donne di Casa Savoia, Genova, Ecig, 2002.
  • Cristina Tessaro, Clotilde di Savoia. Il "sì" che fece l'Italia, Milano, Paoline, 2012.
  • Remsen Whitehouse, Henry (1897). The Sacrifice of a Throne: Being an Account of the Life of Amadeus, Duke of Aosta, sometime King of Spain. New York: Bonnel, Silver, and Co. https://archive.org/details/sacrificeathron02whitgoog 

関連項目

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