マリア・デ・アブスブルゴ
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(マリア・フォン・シュパーニエンから転送)
マリア・フォン・シュパーニエン Maria von Spanien | |
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神聖ローマ皇后 | |
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在位 | 1564年7月25日 - 1576年10月12日 |
別称号 |
ボヘミア王妃: 1562年9月20日 - 1576年10月12日 ハンガリー王妃: 1563年9月8日 - 1576年10月12日 |
出生 |
1528年6月21日 スペイン帝国、マドリード |
死去 |
1603年2月26日(74歳没) スペイン帝国、マドリード、ラス・デスカルサス・レアレス修道院 |
埋葬 | スペイン帝国、マドリード、ラス・デスカルサス・レアレス修道院 |
結婚 | 1548年9月13日 バリャドリッド |
配偶者 | 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | スペイン・ハプスブルク家 |
父親 | 神聖ローマ皇帝カール5世 |
母親 | イサベル・デ・ポルトゥガル |
宗教 | キリスト教カトリック |
マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス(Maria de Habsburgo y Avis, 1528年6月21日 - 1603年2月26日)は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇后。ドイツ語名ではマリア・フォン・シュパーニエン(Maria von Spanien)と呼ばれた。
生涯
[編集]神聖ローマ皇帝カール5世と皇后イザベラの長女(第2子)として、マドリードで誕生した。スペイン王フェリペ2世は兄である。
1548年に従兄に当たるマクシミリアンと結婚した。父の要請により、その不在時にスペインで夫とともに摂政を務め、1552年からウィーンへ移った。マリアは、皇帝となる2人の息子、ルドルフ2世とマティアスに多大な影響を与えた。また、保守的なカトリック教徒であり、進歩的な思想を持つ夫マクシミリアンとしばしば対立した。
夫の死後、1582年にスペインへ帰国した。帰国後マリアは、「異教徒のいない国に住めてとても幸せだ。」と言ったという。1603年に亡くなるまで、スペイン国政に出しゃばることはなかった。
子女
[編集]- アンナ(1549年 - 1580年) - スペイン王フェリペ2世妃
- フェルディナント(1551年 - 1552年)
- ルドルフ2世(1552年 - 1612年) - 神聖ローマ皇帝
- エルンスト(1553年 - 1595年) - スペイン領ネーデルラント総督
- エリーザベト(1554年 - 1592年) - フランス王シャルル9世妃
- マリー(1555年 - 1556年)
- マティアス(1557年 - 1619年) - 神聖ローマ皇帝
- 男子(死産、1557年)
- マクシミリアン(1558年 - 1618年) - ドイツ騎士団総長
- アルブレヒト(1559年 - 1621年) - スペイン領ネーデルラント総督
- ヴェンツェル(1561年 - 1578年) - スペイン・マルタ騎士団団長
- フリードリヒ(1562年 - 1563年)
- マリア(1564年)
- カール(1565年 - 1566年)
- マルガレータ(1567年 - 1633年) - 修道女
- エレオノーレ(1568年 - 1580年)