マリア・デ・ポルトゥガル (1538-1577)
マリア・デ・ポルトゥガル Maria de Portugal | |
---|---|
パルマ公爵夫人マリア、アントニス・モル画、1550年 | |
出生 |
1538年8月12日 ポルトガル王国、リスボン |
死去 |
1577年9月7日(39歳没) パルマ公国、パルマ |
埋葬 | パルマ公国、サンタ・マリーア・マッダレーナ教会 → サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂 |
配偶者 | アレッサンドロ・ファルネーゼ |
子女 |
マルゲリータ ラヌッチョ オドアルド |
家名 | アヴィス家 |
父親 | ギマランイス公ドゥアルテ |
母親 | イザベル・デ・ブラガンサ |
マリア・デ・ポルトゥガル(Maria de Portugal)またはマリア・デ・ギマランイス(Maria de Guimarães, 1538年8月12日 - 1577年9月7日)[1]は、ポルトガルの王女。スペインの将軍・総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの妻。夫の家督継承前に死去したため、パルマ公爵夫人にはなっていない。
生涯
[編集]父はポルトガル王マヌエル1世の六男ギマランイス公ドゥアルテ、母は王家の庶流ブラガンサ公ジャイメ1世の娘イザベル。王族の娘として高度な教育を授けられ、ラテン語やギリシア語に堪能で、数学や哲学の論議に参加することもできるほどの教養を備えた[2]。
従兄にあたるスペイン王フェリペ2世の政治的な意向により、フェリペの甥アレッサンドロとの縁組が取り決めされた。マリアの輿入れの船団は1565年9月14日にリスボンを出港し、途中激しい嵐に遭遇しつつ、イギリス海峡に出て花婿の待つブリュッセルに上陸した。当時、アレッサンドロの母マルゲリータ・ダウストリアがネーデルラント総督を務めていたためである。1565年11月11日に執り行われた婚礼の後、壮麗豪奢な祝宴が開かれた。司式はカンブレー大司教マクシミリアン・ド・ベルグが務めた。翌1566年、夫婦はパルマに移った。
マリアは信心深く、夫に対して愛情こまやかな女性だった。慈善活動に身を捧げ、公国内の多くの女性と身分を問わず積極的に交流したことに対しては、高位の婦人の品位を落とす行為として非難された。
1577年39歳で死去。遺骸はサンタ・マリーア・マッダレーナ教会(Santa Maria Maddalena)に葬られたが、1823年末裔の1人でパルマ公国元首となった元フランス皇后マリー・ルイーズによってサンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂に改葬された。同聖堂内の夫アレッサンドロの棺の隣に安置されたのである。
輿入れに際し携行したと推測されている所持品の中にポルトガル語の料理書があり、『ドナ・マリア内親王の料理書』としてナポリ国立図書館に所蔵されている[2]。
子女
[編集]- マルゲリータ(1567年 - 1643年) - マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガと結婚(のち婚姻無効)
- ラヌッチョ(1569年 - 1622年) - パルマ公
- オドアルド(1573年 - 1626年) - 枢機卿
脚注・引用
[編集]- ^ Portugal, Dicionário históricoの Maria, duquesa de Parma の記事では、1538年12月8日出生、1577年5月死亡と記載されている。
- ^ a b 日埜博司、2008、「オリヴェイラ・マルケス著『中世ポルトガル社会』第1章を読む : ナポリ国立図書館蔵『ドナ・マリア内親王の料理書』和訳の前提として」、『流通經濟大學論集』(43(1),)、流通経済大学、NAID 110007188382 pp. 25-36
参考文献
[編集]- D. Maria de Portugal Princesa de Parma (1565–1577) e o seu tempo, Instituto de Cultura Portuguesa, Porto 1999
外部リンク
[編集]- Maria, duquesa de Parma, in: Portugal, Dicionário histórico