マリア・クリスティーナ・ムニョス
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マリア・クリスティーナ・ムニョス・イ・ボルボン(María Cristina Muñoz y Borbón, 1840年4月19日 マドリード - 1921年12月8日 マドリード)は、スペインの貴族。初代ラ・イサベラ女侯爵。スペイン女王イサベル2世の異父妹。
生涯
[編集]イサベル女王の摂政・母后マリア・クリスティーナ王太后とその再婚相手アグスティン・フェルナンド・ムニョスの間の第5子・三女としてマドリード王宮で誕生[1][2]。1847年姉イサベル女王により初代ラ・イサベラ女侯爵及び初代ラ・デエシージャ女子爵に叙爵された[3]。
1860年10月20日、リュエイユ=マルメゾンで第8代カンポ・サグラド侯爵ホセ・マリア・ベルナルド・デ・キーロス・イ・ゴンサレス・デ・シエンフエゴスと結婚、間に3子をもうけた[1][2]。
- マリア・デ・ロス・デサンパラードス(1864年 - 1951年) - 初代サンタ・クリスティーナ女侯爵、1887年第3代カーサリエゴ侯爵アレハンドロ・トラベセド・イ・フェルナンデス=カーサリエゴと結婚
- アナ・ヘルマーナ・ベルナルド・デ・キーロス(1866年 - 1934年) - 初代アタルフェ女侯爵、1886年初代アンソラ公爵ルイス・デ・ヘスス・デ・ボルボンと結婚
- ヘスス・マリア・ベルナルド・デ・キーロス(1871年 - 1939年) - 初代キーロス侯爵、第9代カンポ・サグラド侯爵
なお、翌1861年には兄のタランコン公爵フェルナンドが、夫の姉妹と結婚している。夫は外交官となり、ロシア、トルコ、ギリシャ駐在特命全権公使を歴任した[4]。
1921年、マドリード王宮にほど近いトゥトル通りの邸宅で死去[2][1]。
スペイン教育・文化・スポーツ相を務めた政治家イニゴ・メンデス・デ・ビーゴは玄孫、スペイン・ブランド化戦略(マルカ・エスパーニャ)担当高等弁務官を務めた実業家カルロス・エスピノサ・デ・ロス・モンテロスは曽孫にあたる。
引用・脚注
[編集]- ^ a b c “La Vida del Gran Mundo. La marquesa de Isabela y de campo Sagrado”. La Acción (Madrid): 2. (21 December 1921). ISSN 2171-5181 .
- ^ a b c “Muerte de una dama ilustre. La marquesa de Isabela y Campo Sagrado”. La Época (Madrid). (20 December 1921). ISSN 2254-559X .
- ^ Conde de Borrajeiros (1987). “La sanción morganática. Su pasado, su presente, su futuro”. Hidalguía (202–203): 735. ISSN 0018-1285 .
- ^ Guía diplomática de España 1887, p. 373; Óscar Javier Sánchez Sanz, Diplomacia y política exterior de España: 1890-1914 (tesis doctoral, UCM, Madrid, 2004), pp. 148-149 y 151.