マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ (1740-1741)
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マリア・カロリーナ Maria Karolina | |
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 | |
出生 |
1740年1月12日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーン |
死去 |
1741年1月25日(1歳没) 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーン |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、カプツィーナー納骨堂 |
父親 | フランツ1世 |
母親 | マリア・テレジア |
マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ(Maria Karolina von Österreich, 1740年1月12日 - 1741年1月25日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第3子、三女。父が帝位に就く前に夭折した。
生涯
[編集]両親の間にはすでに2人の女子が生まれており、3人目の子供には世継ぎとなる男子が強く期待されていたため、女児の誕生は両親や周囲の人々から非常に落胆された。母マリア・テレジアは娘が生まれたその日の夜には洗礼を受けさせ、さっさと名前を決めてしまった。全名はマリア・カロリーナ・エルネスティーナ・アントニア・ヨハンナ・ヨーゼファ(Maria Karolina Ernestina Antonia Johanna Josepha)。
1歳の誕生日を迎えて間もない1741年1月24日、突然に病気に罹って痙攣に苦しみ、翌日には死去した。死因はひきつけとされたが、現在ではテタニーだったと考えられている。検死も行われたが、遺体には特に病症は見当たらなかった[1]。遺骸はカプツィーナー納骨堂内のマリア・テレジア納骨堂(Maria-Theresien Gruft)に安置された[2]。
なお、両親は後に生まれた2人の娘に同じ「マリア・カロリーナ」の名前を与えている。1748年に生まれた第10子(七女)は生後すぐに亡くなった。1752年に生まれた第13子(十女)は、ナポリ王フェルディナンド4世に嫁した[3]。
引用
[編集]- ^ Maria Theresia und ihre Kinder - Teil 3: Maria Karoline und die Fraisen auf imperial-austria.at
- ^ Maria Theresien Gruft auf Kaisergruft.at
- ^ Liste der in Wien beigesetzten Mitglieder des Hauses Habsburg
外部リンク
[編集]- Foto vom Sarg der Maria Karolina in der Kapuzinergruft Wien (abgerufen am 1. Dezember 2010)
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