マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン
マリア・アンナ Maria Anna | |
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オーストリア皇后 | |
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在位 | 1835年3月2日 - 1848年12月2日 |
別称号 |
ハンガリー王妃 ボヘミア王妃 ロンバルド=ヴェネト王妃 |
出生 |
1803年9月19日 教皇領、ローマ、コロンナ宮殿 |
死去 |
1884年5月4日(80歳没) オーストリア=ハンガリー帝国、プラハ、プラハ城 |
埋葬 |
1884年5月12日 オーストリア=ハンガリー帝国、カプツィーナー納骨堂 |
結婚 | 1831年2月27日、ホーフブルク宮殿 |
配偶者 | オーストリア皇帝フェルディナント1世 |
家名 | サヴォイア=ブレッセ家 |
父親 | サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 |
母親 | マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン(ドイツ語: Maria Anna von Savoyen, 1803年9月19日 - 1884年5月4日)は、オーストリア皇帝フェルディナント1世の皇后。イタリア語名:マリーア・アンナ・カロリーナ・ピア・ディ・サヴォイア(Maria Anna Carolina Pia di Savoia)。
生涯
[編集]サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世とその王妃マリーア・テレーザの娘として、ローマのコロンナ宮殿で生まれた。パルマ公妃となったマリーア・テレーザとは双子の姉妹である。母方の祖父母には、オーストリア=エステ大公フェルディナンドとマリーア・ベアトリーチェ・デステがいる。二人の王女は教皇ピウス7世から洗礼を受けた。
1831年に皇太子フェルディナント大公と結婚した。二人の間に子どもはなかった。
フェルディナンドは1835年3月2日にオーストリア皇帝に即位し、マリア・アンナも皇后となった。1836年9月12日にはプラハでボヘミア王妃の戴冠式を行った。ドイツ語に慣れていなかったが、思慮深い態度のおかげで彼女は高い人気を博し、毎年7月26日に皇后を称える祭りが開かれた。国政に何の影響も及ぼさなかったマリア・アンナは自ら「看護婦」を自任し、夫の日常生活を補助することに献身した。
1848年革命に際して宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒに対する支持を撤回したが、後には革命勢力を強硬に鎮圧することに同調した。一方、時局を収拾するために権力の移譲が避けられないことを認識し、甥のフランツ・ヨーゼフに譲位するよう皇帝を説得した。同年12月2日、フェルディナンドはオーストリア皇帝を退位したが、帝国での地位は留め置かれた。その後、夫と共にプラハへ都落ちし、慈善事業に専念して余生を送った。
マリア・アンナは長命であった夫に劣らず80歳まで長生きし、1884年にプラハで没した。ウィーンのカプツィーナー納骨堂の夫の隣に埋葬された。