マヌエル・デ・カスティーリャ
マヌエル・デ・カスティーリャ Manuel de Castilla | |
---|---|
ビリェーナ領主 | |
マヌエルと2番目の妃ベアトリーチェ | |
在位 | 1252年 - 1283年 |
出生 |
1234年 カスティーリャ王国 カリオン・デ・ロス・コンデス |
死去 |
1283年12月25日 カスティーリャ王国 ペニャフィエル |
埋葬 |
カスティーリャ王国 ウクレス修道院 |
配偶者 | コンスタンサ・デ・アラゴン |
ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア | |
子女 |
アルフォンソ・マヌエル ヴィオランテ・マヌエル フアン・マヌエル |
家名 | ボルゴーニャ家 |
父親 | カスティーリャ王フェルナンド3世 |
母親 | ベアトリクス・フォン・ホーエンシュタウフェン |
マヌエル・デ・カスティーリャ(スペイン語:Manuel de Castilla, 1234年 - 1283年12月25日)は、ビリェーナ、ペニャフィエル、クエリャルおよびエスカローナの領主。カスティーリャ王フェルナンド3世とベアトリクス・フォン・ホーエンシュタウフェンの息子。
生涯
[編集]マヌエルはカリオン・デ・ロス・コンデスで生まれた。マヌエルという名は、母方の祖母イレーネー・アンゲリナが東ローマ帝国出身であることに由来する。1252年にビリェーナ領をアパナージュ(後継者がいなかった場合には王領に戻される領地)として与えられた。この領地はビナロポ川周辺の町(エルダ、アスペ、クレビレンテ、エルチェ)を与えられ拡大した。また、マヌエルはムルシア王国の総督の地位を与えられた[1]。
マヌエルは1259年に父からローマ教皇アレクサンデル4世に対し送られた使節団の一人としてイタリアに向かった[2]。後に兄アルフォンソがアルフォンソ10世として即位したとき、王の家令として仕えた。
マヌエルは1283年にペニャフィエルで死去し、ウクレス修道院に埋葬された。息子フアン・マヌエルがビリェーナおよびペニャフィエルを継承し、中世における著名な散文作家として知られる。
マヌエルはカスティーリャ王フェルナンド3世の息子としてカスティーリャ=レオン王家の一員であったが、王家で最初の分家であるビリェーナ家の祖でもあった。
家族
[編集]マヌエルは2度結婚した。1260年にソリアにおいてアラゴン王ハイメ1世の娘コンスタンサと結婚した。この結婚で2子が生まれた。
- アルフォンソ・マヌエル(1260/1年 - 1276年 モンペリエ) - 嗣子なく死去
- ヴィオランテ・マヌエル(1265年 - 1314年 リスボン) - エルチェおよびメデジンの女領主。1287年頃にポルトガル王アフォンソ3世の息子ポルタレグレ領主アフォンソ(1263年 - 1312年)と結婚
1274/5年にサヴォイア伯アメデーオ4世の娘ベアトリーチェと結婚し、1男が生まれた。
- フアン・マヌエル(1282年 - 1348年) - ビリェーナ公、ペニャフィエル公およびエスカローナ領主
以下の庶子がいる。
- サンチョ・マヌエル(1283年 - 1345年以降) - インファンタードおよびカリオンの領主。最初にマリア・ロドリゲス・デ・カスタニェダと結婚、イネス・ディアス・デ・トレドと再婚[3][4]。両方の結婚で子女あり。
- エンリケ・マヌエル(1272年頃生)
- ブランカ・マヌエル(1273年頃生)
脚注
[編集]- ^ González Jiménez 2004, p. 157.
- ^ González Jiménez 2004, p. 134.
- ^ Torres Fontes 2003, pp. 11–12.
- ^ Torres Fontes 1984, p. 84.
参考文献
[編集]- González Jiménez, Manuel (2004). Alfonso X el Sabio (1st ed.). Barcelona: Editorial Ariel S. A.. ISBN 84-344-6758-5
- Torres Fontes, Juan (1984). Instituto de Estudios Albacetenses "Don Juan Manuel". ed. Congreso de Historia de Albacete. Vol. 2. Albacete. ISBN 84-505-0368-X
- Torres Fontes, Juan (2003). “La descendencia del infante Don Manuel y el señorío de Pinilla”. Murgetana (109). ISSN 0213-0939 .