マチュー・ド・フォワ (コマンジュ伯)
マチュー・ド・フォワ Mathieu de Foix | |
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コマンジュ伯 | |
在位 | 1419年 - 1443年 |
出生 |
1385年 |
死去 |
1453年12月 |
配偶者 | コマンジュ女伯マルグリット |
カトリーヌ・ド・コアラズ | |
子女 |
ジャンヌ マルグリット |
家名 | グライー家 |
父親 | アルシャンボー・ド・グライー |
母親 | フォワ女伯イザベル |
マチュー・ド・フォワ(フランス語:Mathieu de Foix, 1385年 - 1453年12月)は、妻の権利によりコマンジュ伯(在位:1419年 - 1443年)。1440年より金羊毛騎士団の団員であった。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]マチューはアルシャンボー・ド・グライーとフォワ女伯イザベルの間に生まれた[1]。
おそらく兄のジャン1世と同じようにフランス宮廷で育ち、1413年に騎士とされた。この間に、マチューはブルゴーニュ公ジャン(無怖公/怖れ知らず)と親しくなった。
忠誠に対する褒美として、次代のブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)と同盟を結んでいたフランス王シャルル6世は、ナルボンヌ子爵ギヨーム2世[注釈 1]が領有していたナルボンヌ子爵領をマチューに与えた。しかし、ナルボンヌの町は正当な領主ギヨーム2世に忠実であったため、マチューは実効支配することができなかった。
結婚
[編集]1419年にギヨーム2世の義母であるコマンジュ女伯マルグリットと結婚した。マチューはマルグリットをコマンジュ伯領の統治から追放した後、マルグリットを監禁し、自由を奪った[2]。マチュー・ド・フォワはマルグリットを穏やかに扱わず、結婚してまだ1年も経っていないのに、これが彼女の情欲を抑える唯一の方法だと言って監禁した[2]。
その直後、フランス王への忠誠心が高く評価されていたにもかかわらず、マチューはブルゴーニュ同盟を放棄し、王太子シャルルに忠誠を誓い、1426年から1428年までドーフィネの総督に任命された[1]。
兄ジャン1世の死後、甥のガストン4世に代わってフォワ伯領の摂政となった。不満を抱いたマルグリットの家臣はマルグリットの返還を要求し、フランス王シャルル7世に訴え、マルグリットの釈放を命じた。しかしマチューはこれを拒否し、妻とともにフォワに移った。
アルマニャック伯との抗争
[編集]1440年、マチューはブルゴーニュ公フィリップ3世が主宰する金羊毛騎士団の騎士となった。シャルル7世はアルマニャック伯ジャン4世にコマンジュ伯領を占領させ、1441年にフォワ伯とアルマニャック伯の間で戦争が勃発したが、1442年のイングランド-フランス戦の間だけ中断された。この遠征の後、シャルル7世は再びマルグリットの釈放を命令した。マルグリットはその後すぐに亡くなり、コマンジュをフランス王に遺贈した。
1449年、マチューはガストン4世に同行してモレオン包囲戦に赴いた。マチューはその4年後に死去した[1]。
結婚と子女
[編集]マチューは1419年7月16日にコマンジュ女伯マルグリット(1443年没)と結婚したが、マルグリットとの間に子供はいなかった。
マルグリットの死後に、マチューは、アスペ男爵レーモン・アルノー・ド・コアラズの娘カトリーヌと1446年頃に再婚し、2女が生まれた。
- ジャンヌ - 1460年にカラマン子爵・サン=フェリックス男爵ジャンと結婚
- マルグリット - 1471年にアントワーヌ・ボンヌヴァルと結婚
また、愛妾との間に、1男をもうけた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c Allard 1704, p. 174.
- ^ a b (イタリア語) Storia dei francesi di J. C. L. Simondo de' Sismondi: 13. Tip. Elvetica. (1838) 2022年9月16日閲覧。
参考文献
[編集]- d'Amat, Roman (1979). “FOIX (Mathieu de Grailly de Foix, comte de Comminges)” (フランス語). Dictionnaire de biographie française. vol. 14. Paris, col. 199.
- Allard, Guy (1704). Jean Verdier. ed (フランス語). Œuvres diverses. pp. 155-211. Allard1704
- “Archambault de Grailly”. Foundation for Medieval Genealogy. 2023年7月29日閲覧。