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マクシミリアン・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マクシミリアン・フォン・アルコ=ファーライ伯爵、1831年

ヨハン・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フィリップ・クレメンス・フォン・ウント・ツー・アルコ・アオフ・ファーライJohann Maximilian Josef Maria Philipp Clemens Graf von und zu Arco auf Valley, genannt Bogen, 1806年4月8日 ミュンヘン - 1875年12月23日 ヴェネツィア)は、ドイツ・バイエルン王国の大土地所有者、政治家。伯爵。

生涯

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ミュンヘンのヴィルヘルム中等教育学校ドイツ語版で1823年アビトゥーア資格を取得[1]ストラスブール大学ランツフート大学ドイツ語版に遊学するが、1826年にはミュンヘン大学に戻った。同年、学生組合コーアス・イザリアドイツ語版に加入した[2]

1828年よりバイエルン参議院ドイツ語版議員を終身で務めた。また1868年から1870年まで、関税議会ドイツ語版シュヴァーベン3区(ディリンゲン郡ギュンツブルク郡ツーシュマルツハウゼン地区ドイツ語版)選出の議員を務めた。カトリック保守派のバイエルン愛国党ドイツ語版の代表的存在だった。

オーバーエスターライヒ州ザンクト・マルティンドイツ語版及びアウロルツミュンスタードイツ語版、バイエルンのファーライドイツ語版アードルドルフドイツ語版マルガースドルフドイツ語版、オーバーケルンバッハ(ランツフート郊外)及びバウムガルテン(ディータースブルクドイツ語版郊外)の領主であった。また、南ドイツ土地信用銀行ドイツ語版の共同設立者にも名を連ねた。

家族・親族

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カール・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵(1769年 - 1856年)とその妻の伯爵令嬢マリア・アンナ・フォン・ザインスハイム(1774年 - 1847年)の間の一人息子。バイエルン選帝侯未亡人マリア・レオポルディーネは義理の叔母にあたり、その2人の息子、アロイス・フォン・アルコ=シュテッペルク及びマクシミリアン・フォン・アルコ=ツィンネベルクとは従兄弟同士である。

1832年6月11日ボローニャで、伯爵令嬢アンナ・マレスカルキ(1813年 - 1885年)と結婚。アンナの父方祖父フェルディナンド・マレスカルキ英語版伯爵、母方祖母グロポリ侯爵夫人アンナ・ピエーリ・ブリニョーレ・サーレはいずれもフランス第一帝政期に活躍したイタリア人であった。夫妻の間には8人の子があった。

引用

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  1. ^ Max Leitschuh: Die Matrikeln der Oberklassen des Wilhelmsgymnasiums in München, 4 Bde., München 1970–1976.; Bd. 3, S. 260
  2. ^ Kösener Korps-Listen 1910, 173, 133

外部リンク

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