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マウレタニア・カエサリエンシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Provincia Mauretania Caesariensis
ローマ帝国属州

紀元後42年 - 7世紀
マウレタニア・カエサリエンシスの位置
マウレタニア・カエサリエンシスの位置
紀元後125年前後のマウレタニア・カエサリエンシス属州
政庁所在地 カエサリア英語版
時代 古代
 - アフリカ属州再編 紀元後42年
 - ムスリム征服英語版 7世紀
現在 アルジェリアの旗 アルジェリア


マウレタニア・カエサリエンシス: Mauritania Caesariensisカエサルマウレタニア」)とは、現在でいうアルジェリアマグリブに存在したローマの属州である。首都はカエサリア英語版(現在のシェルシェル英語版)。隣接する属州で、タンジェを首都とするマウレタニア・ティンギタナと区別するため、首都の名前を冠して呼ばれる。

歴史的背景

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皇帝ハドリアヌス在位時(117–138)のローマ帝国の領域。マウレタニア・カエサリエンシスは皇帝属州であった。

紀元後1世紀ローマ皇帝クラウディウスは最西端のローマの属州であったアフリカ属州をマウレタニア(マウリ人英語版の土地)と改名し、同時にマウレタニア・カエサリエンシス(カエサリアを首都とする)とマウレタニア・ティンギタナとに分割した。

ディオクレティアヌステトラルキアに伴う再編において、マウレタニア・カエサリエンシスの最東部は内陸の都市シティファを首都とし、サルデ英語版(現在のベジャイア)を主要港とするマウレタニア・シティフェンシス英語版に分割された。

マウレタニア・カエサリエンシスにはアウグストゥスの設置した八つの植民都市、カルテンナ英語版、グヌグ、イギルギリ英語版ルスグニエ英語版、ルサズ、サルデ英語版ズッカバル英語版、トゥブスクトゥと、クラウディウスの設置した二つの植民都市、カエサリア英語版(ユバがパトロンであったアウグストゥスを称え、彼の首都ロルを改名)とオッピドゥム・ノウム、ネルウァの設置したシティファ、さらに後にはアルセナリア英語版ビダ英語版シガ英語版、アクエ・カリデ、クイザ・クセニタナ英語版ルスクール英語版アウジア英語版ギルウァ英語版ティパサ英語版の、あわせて21の有名な植民都市と、いくつかのムニキピウム、および「オッピーダ・ラティーナ」があった。

ディオクレティアヌスおよびコンスタンティヌス大帝の時代には、シティフェンシスおよびカエサリエンシスはイタリア道英語版内のアフリカ管区英語版に、ティンギタナはヒスパニア管区の辺境に再編された。カエサリアは330年まではユダヤ教の主要中心地の一つであり、シティファはミトラ教の中心地の一つであった。キリスト教は四世紀から五世紀にかけて広まった。

宗教

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支配階級の間では、430年にジブラルタル海峡から渡来したヴァンダル族により成立したゲルマン王国の下でアリウス派に代わり三位一体派が広まった。ヴァンダル王国はビザンツ軍533年前後に滅ぼされるが、マウレタニア・カエサリエンシスのほとんどはマスティガス英語版のようなムーア人の支配下に残り、内陸部にまでビザンツ帝国の支配が確立するのは560年代から570年代にかけてである。ムスリムによるマグリブ征服英語版によりビザンツ帝国のアフリカ総督府英語版およびこの地方の後期古代ローマ文化は終焉を迎えた。元マウレタニア・カエサリエンシスのほとんどの部分はイスラム王朝領の最西部となり、日の沈む土地という意味のマグリブと呼ばれるようになった。

司教管区

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Annuario Pontificio に掲載されているマウレタニア・カエサリエンシスにおける名義司教区英語版の一覧を以下に掲げる[1]

* Ala Miliaria (Beniane)

経済

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ローマ支配化における北部アフリカ

マウレタニア・カエサリエンシスの主要輸出物は紫色染料と高級木材であり、加えてアマーズィーグまたはマウリ人英語版は兵士として、特に軽騎兵としてローマ人に高く評価されていた。出身者にはトラヤヌス帝の最高指揮官、ルシウス・クィエトゥス英語版マクリヌス帝が挙げられる。

関連項目

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出典

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  1. ^ Annuario Pontificio 2013 (Libreria Editrice Vaticana, 2013, ISBN 978-88-209-9070-1), "Sedi titolari", pp. 819-1013

参照文献

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  • Westermann, Großer Atlas zur Weltgschichte (ドイツ語)