マイケル・ヒックマン
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Michale Hickman | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イングランド | |||||
生年月日 | 1946年10月2日(78歳) | |||||
出身地 | サリー州エルステッド | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW/MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1966-1968 | ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC | 15 | (0) | |||
1968-1974 | グリムズビー・タウンFC | 254 | (48) | |||
1974-1976 | ブラックバーン・ローヴァーズFC | 26 | (8) | |||
1975-1977 | トーキー・ユナイテッドFC | 17 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
1978-1982 | トーキーU・ユース・サテライトコーチ | |||||
1982-1983 | マルコーニ・スタリオンズFCアシスタント | |||||
1983-1987 | シドニー・シティーSCアシスタント | |||||
1987-1988 | シドニー・オリンピックFCアシスタント | |||||
1988-1992 | シドニー・オリンピックFC監督 | |||||
1992 | シドニー・ユナイテッドFC監督 | |||||
1990-1993 | → オーストラリアアシスタント | |||||
1993-1994 | レディングFCフィットネス | |||||
1994-1995 | レスター・シティフィットネス | |||||
1995-1998 | ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズフィットネス | |||||
1999-2000 | サンフレッチェ広島コーチ | |||||
2001-2002 | ノーザン・スピリットFC監督 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2008年3月13日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マイケル・フレデリック・トーマス・ヒックマン(Michale Fredrik Thomas Hickman、1946年10月2日 - )はイングランド出身の元サッカー選手、サッカー指導者[1]。
一般的には、「Mike Hickman(マイク・ヒックマン)」か「Mick Hickman(ミック・ヒックマン)」として知られている。公式的な資料ではマイク/ミック両方共に使われており[2][3] 定まっていないこと、両方ともマイケルの愛称であること、Jリーグ登録時の名前がマイケル・ヒックマン表記であるため検証可能性の観点、以上3つのことから本表題ではマイケル表記とする。
来歴
[編集]1966年フットボールリーグ3部のブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCに入団するも[1]、1968年4部のグリムズビー・タウンFCに移籍する[4]。このチームに長く在籍し主力としてリーグ戦通算250試合以上出場[4]、1972年に4部優勝し翌1972-73シーズンから3部でプレーする。
1974年3部のブラックバーン・ローヴァーズFCに移籍し[1][4]、同シーズン3部優勝、翌1975-76シーズンは2部でプレーした。
1975年4部のトーキー・ユナイテッドFCへ移籍し、1977年を持って現役引退した[4]。引退後は同チームのアカデミーで指導経験を積んだ[1]。
1982年オーストラリアに渡りNSLのチームで指導し、1983年からエディ・トムソン監督率いるシドニー・シティーSCでアシスタントコーチに就任した[1]。ここで数々のタイトルを取り、オーストラリアでは評価されたコンビとなった[5]。
1987年にはトムソンが転籍したシドニー・オリンピックFCに引きぬかれる形でアシスタントコーチに就任しトムソンを支え[1]、翌1988年から監督に昇格し4シーズン指揮した[2]。1989-90シーズンにはリーグ優勝を飾る。
1992年にはライバルチームであるシドニー・クロアチア(現シドニー・ユナイテッドFC)監督に就任したもののごく短期間で辞任している[3]。
また1990年、トムソンがサッカーオーストラリア代表監督に就任したことに伴い、ヒックマンもクラブチーム監督と兼務する形でそのアシスタントコーチに就任している[1]。
その後はイングランドに戻り、複数のクラブでフィットネス(フィジカル)コーチとして活躍する[1]。
1999年、退任したトム・セルマーニの後任としてサンフレッチェ広島ヘッドコーチに就任し再びトムソンを支え[1]、2000年末トムソン退任に伴いヒックマンも退任した。
2001年、グラハム・アーノルドの後任としてノーザン・スピリットFC監督に就任し1シーズン指揮した[6]。
2012年現在、ケレム・ブルトなどを顧客に持つ代理人として活躍している[7]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i サンフレッチェ広島公式
- ^ a b “History - Sydney Olympic FC Players of all Time”. シドニー・オリンピックFC公式. 2012年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月9日閲覧。
- ^ a b “Club History”. シドニー・ユナイテッドFC公式. 2013年7月9日閲覧。
- ^ a b c d e Post War English & Scottish Football League A - Z Player's Database
- ^ “Special Feature: Olympic's Dynamic Duo”. Football NSW. 2013年7月9日閲覧。
- ^ “McKinna takes over from Hickman at Spirit”. The Age (2002年7月3日). 2013年7月9日閲覧。
- ^ “Bulut set for Turkish delight”. スペシャル・ブロードキャスティング・サービス (2012年1月6日). 2013年7月9日閲覧。
参考資料
[編集]- “サンフレッチェ広島のヘッドコーチとしてヒックマン氏の就任が決まりました。”. サンフレッチェ広島公式 (1999年1月13日). 2001年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月9日閲覧。
- Mike Hickman - Post War English & Scottish Football League A - Z Player's Database