ポール・モラン
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ポール・モラン(Paul Morand, 1888年3月13日 - 1976年7月24日)は、フランスの作家、外交官である。短編集『夜ひらく』(1922 年)、『夜とざす』(1923年)[1]で一躍ベストセラー作家となった[2]。
経歴
[編集]パリ政治学院を卒業後、外交官として各国を回った。その傍ら、詩や小説を書き出し、マルセル・プルーストとも親交を持った。1920年代のモダニズム小説として知られる「夜ひらく」(1922年)で一躍有名になった。優雅な紳士で国際情勢にも詳しいモランは、社交界の寵児となった。モランの作品は日本でも、同時期から堀口大學により精力的に翻訳され、日本モダニズム文学に影響を与えた[3]。
1925年にバンコクのフランス公使館へ赴任し、その途上、ポール・クローデルを訪ねて日本にも立ち寄った[2]。このときの旅行記に『土地以外何物もない』(Rien que la terre)があり、大阪は産業地獄であると評すなど、日本の印象についても触れている[4][5]。
第二次世界大戦中に親独のヴィシー政権の外交官であったため、戦後にナチス・ドイツの協力者として糾弾され、スイスに亡命した(この際、同じくスイスに滞在していたココ・シャネルへのインタビューを行った)。長らくフランス文壇への復帰は叶わず、フランスへの帰国が許されたのちは、旅行記の執筆などをしたが、戦前に見られた作家としての勢いは失った[3]。1968年にはアカデミー・フランセーズ会員となった。
作品
[編集]- 夜ひらく(Ouvert la nuit, 1922年)
- 堀口大學訳 新潮社、1924年。角川文庫、1954年
- 夜とざす(Fermé la nuit, 1923年)
- 堀口大學訳 新潮社、1925年。「夜ひらく・夜とざす」 旧新潮文庫、1929年
- 堀口大學全集 補巻1「飜訳作品」、各・小澤書店、1981年。のち復刻版・日本図書センター
- レヰスとイレエン (堀口大學訳 第一書房、1925年)
- 恋の欧羅巴 (堀口大學訳 第一書房、1925年)
- 三人女 小説 (堀口大學訳 第一書房、1928年)
- 世界選手 (飯島正訳 白水社、1930年)
- 白鳥の死 (岡田真吉訳 鱒書房、1940年)
- 印度ルート (真木昌雄訳 南北社、1942年)
- 情熱の波 (堀口大學訳 岡倉書房、1946年)
- 1/4秒に生きる男 (堀口大學訳 講談社 1958年)
- シャネルの魅惑(L'Allure de Chanel)
- 黒い魔術(吉澤英樹訳・解説、未知谷、2018年5月)
- ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ(Don Quichotte à Dulcinée, モーリス・ラヴェル作曲による歌曲集、1933年)
脚注
[編集]- ^ ポオル・モオラン, 堀口大學『夜ひらく ; 夜とざす』7号、新潮社〈新潮文庫〉、1929年。 NCID BA31698441 。
- ^ a b 吉澤英樹「モダンの表象としての「外交官=作家」像の虚実 : 米『ヴァニティ・フェア』誌に掲載されたフランス人作家ポール・モランの記事をめぐって」『成城文藝』第237-238号、成城大学文芸学部、2016年12月、79-62頁、ISSN 0286-5718、NAID 120006381148。
- ^ a b 大村梓, 大村梓「翻訳家堀口大学を巡る一考察 : ポール・モーランという言説」『山梨国際研究 : 山梨県立大学国際政策学部紀要』第11号、山梨県立大学、2016年3月、1-10頁、ISSN 2187-4336、NAID 120006800558。
- ^ 柳沢健『巴里を語る』中央公論社、1929年。doi:10.11501/1177995。 NCID BN12805557。NDLJP:1177995 。
- ^ 中島裕之「ポール・モランのコスモポリチスムの変遷 (対東洋)」『フランス語フランス文学研究』第67巻、日本フランス語フランス文学会、1995年、112頁、doi:10.20634/ellf.67.0_112、ISSN 0425-4929、NAID 110001247451。