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ホイン・イルゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ホイン・イルゲンモンゴル語: hoi-yin irgen)とは、モンゴル語で「森林の民」を意味する言葉。モンゴル帝国時代には、シベリアタイガ地帯に住まう諸部族の総称として用いられた。

ホイン・イルゲンは、生業の面から(1)タイガの中に住まうトナカイ飼養狩猟民、(2)タイガに囲まれた平野部(特に大河川の流域)に住まう馬牛羊飼養牧畜民に大別される。両者は様々な面で性格の異なる集団であるが、「タイガによってモンゴル高原と隔てられている」という点で共通しており、この点に基づいてモンゴル高原の遊牧民からは異族視されていたとみられる[1]。前者が勢力も小さく記録も少ないのに対し、後者はオイラトキルギスに代表されるようにモンゴル高原の有力部族にも匹敵するような大勢力を築き、歴史上で大きな役割を果たしている。

歴史

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モンゴル帝国による征服

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モンゴル帝国によるホイン・イルゲンの征服について、『元朝秘史』『集史』『元史』には多くの関連する記述があるが、 前後関係が錯綜しており前後関係を把握するのは難しい。時系列関係として最も信用おけるのは『聖武親征録』の記述で、同書は1217年にトマト部の叛乱を平定するためにボロクル・ノヤンが派遣されたが殺されてしまい、翌年改めて派遣されたジョチ太子が「ホイン・イルゲン」を平定したと伝える。『元朝秘史』はホイン・イルゲンに属する諸族の名称についてこそ詳しいものの、誤ってボロクルの出征とジョチの出征の順番を逆にしており、時系列の面で信用がおけない点には注意が必要である。

モンゴル系国家による分断

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シビル・ハン国の領域

モンゴル帝国を建国したチンギス・カンは配下の民を自らの親族に分封しており、モンゴル帝国は当初から王族の治める複数のウルス(遊牧集団)が連合する複合体としての側面を有していた。モンゴル帝国を構成するウルスの中でも、ホイン・イルゲン征服を担当したジョチを開祖とするジョチ・ウルスは特にホイン・イルゲンとの関係が強かったことが知られている。『モンゴル秘史』はホイン・イルゲンに属する諸族について、①オイラト、ブリヤート、バルグン、ウルスト、カブカナス、カンガス、トバス、②キルギス、③シビル、ケスディム、バイト、トカス、テンレク、トエレス、タス、バジギト、④コリ・トゥマトの4か所に分けて記述しているが、この内③についてはジョチ家に属する記録が多く、それ以外についてはトルイ家に属するとする記録が多い。そのため、イェニセイ河中下流域〜オビ川上流域の諸族はジョチ・ウルスに属し、それ以外の諸族はトルイ・ウルス、後には大元ウルスに属したものとみられる[2]

また、『元朝秘史』にはバアリン部コルチ・ウスン・エブゲンはスルドス部のタガイ・バアトルやアシクとともにテレングトやテレスといった諸族を加えて「万人隊(トゥメン)」を構成し、「イルティシュ川に沿える森の民に至るまで」統べたと記される[3]。この「バアリン万人隊」はモンケの一族と縁が深く、そのためかバアリン万人隊に属していたとみられるテレングトやテレスといった現アルタイ共和国内の諸族について『元史』や『集史』といった史料はあまり記録が残っていない[4]

16世紀末にモスクワ大公国シビル・ハン国を滅ぼして以後、かつて「ホイン・イルゲン」と呼ばれた諸族は急速にモスクワ(ロシア帝国)の支配下に入ってった。モンゴル帝国がホイン・イルゲンの諸部族を征服し、人口調査と十進法に基づく集団の形成、貢税の徴収といった統治体系を持ち込んでいたからこそ、ロシア帝国は迅速にシベリアの諸部族を征服することができたと評されている[5]

分類

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「ホイン・イルゲン」の中には多種多様な言語・文化を有する集団が属しているが、大きく(1)タイガの中に住むトナカイ飼養狩猟民、(2)タイガに囲まれた河の流域の草地に住まう馬牛羊飼養牧畜民、(3)タイガの近くに住まう部族の3つに分類される。

トナカイ飼養狩猟民

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トナカイの引く橇に乗る現代のエヴェンキ

トナカイ飼養狩猟民の生業については、『元史』巻63志15地理志6「西北地附録」と『集史』「森のウリヤンカト部族志」に詳しい記述が残されている。

まず、『元史』巻63志15地理志6「西北地附録」にはカブカナスについて以下のように記されている。

カブカン(撼合納)は布袋のことで、口が小さく袋の中が大きいというのがこの地形に似ており、こういう名になっている。ウルスト(烏斯)の東、ケム河(謙河)の源流域にある。その境は2箇所だけ出入りが可能で、山・河・森に囲まれていてとても険阻であり、野獣は多いが家畜は少ない。貧しい民で恒産を持たない者で、みな樺の皮で家を作り、トナカイ(白鹿)の後を追ってその乳を取り、松の実を採り、山丹・芍薬の根などを食べている。またそり(木馬)に乗って出猟する。
撼合納猶言布嚢也、蓋口小腹巨、地形類此、因以為名。在烏斯東、謙河之源所従出也。其境上惟有二山口可出入、山水林樾、険阻為甚、野獣多而畜字少。貧民無恒産者、皆以樺皮作廬帳、以白鹿負其行装、取鹿乳、採松実、及劚山丹・芍薬等根為食。冬月亦乗木馬出猟。 — 『元史』巻63志15地理志6「西北地附録」[6]

以上の記述をまとめると、(1)樺の木の皮でテントを作る。(2)白鹿(トナカイ)を荷駄用に用い、その乳を搾る。(3)家畜の数が少ない。(4)山丹などの植物の根を採集して食べる。(5)冬に木馬(スキー)を使用して狩猟を行う、という5点がカブカナスの特徴として挙げられる。

次ぎに、『集史』「森のウリヤンカト部族志」には以下のように記されている。

彼らは決して角型や椀型の天幕を持たない。彼らの衣服は動物の皮から作った。彼らの所には、牛や羊はいなかったが、牛や羊の代りに、山の牛、山の雌羊や、山の羊に似たジュルを飼っていて、捕獲してその乳を搾り飲んでいた。彼等は移動の時に、山の牛に家財道具を積んでいた。彼等は決して森から外に出なかった。彼等は下営した所に、白樺の木や他の木の皮で数少ない覆いやテントを作り、それで足りていた。[中略]彼等の地方には、山や森がたくさんあり、雪がよく降るので、冬は雪の上でたくさんの物を殺す。彼らは、チャナと呼ばれている板を作ってその上に立ち、皮から手綱を作り、一本の棒を手に握っている。彼らは、水の上で舟を操るように、雪の上でその棒を地面に突き刺す。平原や下り坂や登り坂を、山の牛や他の動物に追いつくように乗りまわし、[その動物を殺している。彼らは、他のチャナを、引っ張ってゆくために、自分が乗るチャナに結びつけ、〔獲物を〕殺すと、殺した獲物をその上に積んでいる。2千〜3千マンをその上に積んでも、それにわずかな力を加えれば、容易に雪の上を走る。 — 『集史』「森のウリヤンカト部族志」[7]

以上の記述をまとめると、(1)遊牧民の天幕を持たず、白樺などの木の皮で作ったテントに住む。移動するが森からは出ない。(2)牛や羊を持たず、山の牛(=トナカイ)、山の雌羊、ジュル(=ノロジカ)を飼い、その乳を搾る。(3)山の牛を荷駄用に用いる(4)動物の皮で衣服を作る。(5)冬にチャナ(スキー)を使用して山の牛などの狩猟を行う、という5点が森のウリヤンカトの特徴として挙げられる。

エニセイ河流域には現在もトナカイ飼養狩猟民のエヴェンキ人が居住しており、上述したカブカナスや森のウリヤンカトの生活形態と一致する[8]。カブカナスと森のウリヤンカトの生活形態は極めてよく似ているにもかかわらず、『集史』は全くカブカナスについて言及せず、逆に「森のウリヤンカト」という集団について『集史』以外の史料は全く言及しない。この点について、宇野伸浩は『集史』の「森のウリヤンカト」の記述はほぼ生業形態についてしか記述していないことに注目し、「森のウリヤンカト」はあくまで生業形態が共通する諸部族の総称であって、カブカナスも「森のウリヤンカト」に含まれるトナカイ飼養民の一つなのであろう、と指摘している[9]

馬牛羊飼養牧畜民

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『大元馬政記』は官営牧場の中が東は耽羅、北はコリトマト、西は甘粛、南は雲南に至る地域に設けられていたと記す。

『元史』西北地理志によると、ウルスト(烏斯)は白馬・牛・羊を馬乳酒を作っており、またキルギスは遊牧民の天幕に住んで牧畜・農耕を行っていたという[10]。『集史』にはあまり関連する記述がないが、バルグ諸族が住むバルグジン・トクムでは馬乳酒・クミーズ・ヨーグルトを作っていることを伝えており、バルグ諸族では馬・羊の牧畜を行っていたことが窺える[11]。また、『大元馬政記』はコリ・トゥマト(火里禿麻)に最北の官営牧地があったことを伝えており、コリ・トゥマトも良好な馬を産出する牧民であったようである[12]

以上のウルスト、キルギス、バルグ諸族、コリ・トゥマトに、強力な軍隊を有して高原の諸部族とも争ったオイラトを加えたグループは、ホイン・イルゲンの中でも河川流域の平地に住み、モンゴル高原の遊牧民とさほど変わらない牧畜生活を送っていたとみられる[13]

森林付近に住まう遊牧民

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上記の2グループの他に、純然たるモンゴル高原の遊牧民でありながら「ホイン・イルゲン」と呼ばれる集団も存在した。『集史』には以下のような興味深い逸話が記されている。

バルタン・バアトルの]二番目の息子はネクン・タイシであり、森林の部族は彼の子孫からである。彼らはホイン・イルゲンと呼ばれている。彼らの呼び名が、軽蔑して「森林の部族」となったのは、チンギス・カンの時に、彼らが心変りして彼に背き、タイチウト族のところへ、森林へ去ったためである。 タイチウトと他のいくつかの部族が、この名で呼ばれていた。その理由は、住地(ユルト)が森林の近くにあった部族は、どれも森林の部族に関係づけられたからである。 — 『集史』バルタン・バアトル紀[14]

ここでは、森林地帯には住んでいないが、その付近に住まう者達が「蔑まれて」ホイン・イルゲンと呼ばれたと記されている。すなわち、「ホイン・イルゲン」という呼称には、蔑称としての用法もあったようである[13]

一覧

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『元朝秘史』239節にはモンゴル軍に服属したホイン・イルゲンの名称が列挙されるが、これは南シベリアの諸民族名を網羅的に記録した最初の史料であり、シベリア先住民族研究上も非常に重要な資料である[15]。このほかにも『集史』部族志や『元史』西北地理志にもホイン・イルゲンの諸部族に関する記載があり、中には「『元朝秘史』」に見られない部族名も挙げられている。

名称 漢字表記 ペルシア語表記 現代の民族名 居住地
オイラト(Oyirad) 斡亦剌/wòyìlá اويرات/ūīrāt カルムイク人 「八河地方 ケム河流域」に住まう
バイカル湖南岸-トゥヴァ共和国一帯[16]
ブリヤート(Buriyad) 不里牙惕/bùlǐyátì - ブリヤート人 バイカル湖東岸[17][18]
バルグン(Barqun) 巴児渾/bāérhún برقوت/barghūt バルガ族 バイカル湖東岸[17][18]
ウルスト(Ursud) 兀児速惕/wùérsùtì(秘史)
烏速/wūsù(親征録)
烏斯/wūsī(元史)
اوراسوت/ūrāsūt ウラズ氏族(カザフ人) トゥヴァ共和国東部[19][20]
カブカナス(Qabqanas) 合卜合納思/hébǔhénàsī(秘史)
撼哈納思/hànhānàsī(親征録)
撼合納/hànhénà(元史)
- 不明 トゥヴァ共和国東部[21][18]
カンガス(Qangqas) 康合思/kānghésī カマシン人 クラスノヤルスク地方カン川流域[22]
トバス(Tubas) 禿巴昔/tūbāxī - トバラル人(アルタイ人) クラスノヤルスク地方トバ川流域[23]
キルギスト(Kirgisud) 乞児吉思/qǐérjísī(秘史)
吉利吉思/jílìjísī(元史)
قیرقیز/qīrqīz ハカス人 クラスノヤルスク-ハカス共和国[24]
シビル(Sibir) 失必児/shībìér سبیر/ibir-sibīr シベリア・タタール人 チュメニ州[25]
ケスディム(Kesdiyim) 客思的音/kèsīdeyīn(秘史)
克失的迷/kèshīdemí(親征録)
کوشتمی/kūshtemī ケシュテミ人 オビ川上中流域-イェニセイ川中流域[26]
バイト(Bayid) 巴亦惕/bāyìtì - ペーバイ(エネツ人) イェニセイ河口東岸[27]
トカス(Tugas) 禿合思/tūhésī - トファラル人(アルタイ人)[27] アルタイ共和国北部、イルクーツク州南西河流域[27]
テンレク(Tenleg) 田列克/tiánlièkè(秘史)
帖良兀/tièliángwù(親征録)
تلنکوت/telenkūt テレンギト人 アルタイ共和国南部[28]
トエレス(Toeles) 脱額列思/tuōélièsī تولاس/tūlās テレス人(アルタイ人) アルタイ共和国南部[28]
タス(Tas) 塔思/tǎsī - セリクプ人 タズ川流域[29]
バジギト(Bajigid) 巴只吉/bāzhǐjí - バシキール人 バシコルトスタン共和国[30]
コリ・トゥマト(Qori tumad) 禿馬惕/tūmǎtì(秘史)
火里禿麻/huǒlìtūmá(馬政記)
قوری/qūrī
تومات/tūmāt
トゥヴァ人 トゥヴァ共和国[30]

前述したように、『元朝秘史』にのみ記されて『集史』には言及されないトナカイ飼養民の諸部族(カブカナス、カンガス、トバス、トカス、バイト)は、「森のウリヤンカト」 の中に含まれていると考えられる[9]

また、『元朝秘史』は全く言及しないがホイン・イルゲンに属するとみられる部族として、『元史』西北地理志の「昂可剌」という部族が存在する。「昂可剌」とは「アンガラ川に住まう者」という意味と考えられ、『元史』には「昼が長く夜が短い(=北極圏の住民)」と記されている[31]。一方、『集史』タタル部族志では「アンクラ・ムレン(アンガラ川)に住まうモンゴルの一支族」ウスト・マンクンという部族が紹介されている。『集史』にはアンクラ川とカマル川が合流する地点にはキルギスに属する「キカス」という町があると記されているが、カマル川をイェニセイ川と仮定するとキカスの町は現在のエニセイスク附近となる。『集史』がキカスの町に派遣された者たちが「腐敗した空気と極度の湿気」 によって病死したと記すことも、酷暑の夏と蚊が大量発生する気候で知られるシベリア奥地の情景と合致する[32]。『元史』西北地理志は「昂可剌」がキルギスとは言語が異なり唐代の骨利干(クリカン)の末裔であるとするが、現在でもエニセイスク附近はエニセイ語族の居住地であり、クリカン=アンガラ=ウスト・マンクンはエニセイ語族の一派ではないかとみられる[32]

ホイン・イルゲンには様々な言語の話者が含まれているが、サモエード語派話者と見られるカマシン人の土地をテュルク語でイラン(益蘭)と呼ぶなど、テュルク語が共通語もしくは支配階級の言語として用いられていたようである[33]。なお、シベリアにはエヴェンキなどのツングース系民族も居住していたはずであるが、何故かホイン・イルゲンにはツングース系住民の名は全く挙げられない[34]

脚注

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  1. ^ 宇野1986,182頁
  2. ^ 安木2020,28頁
  3. ^ 村上1972,407頁
  4. ^ 安木2020,29-30頁
  5. ^ 安木2020,12頁
  6. ^ 訳文は安木2020,18頁より引用
  7. ^ 訳文は宇野1985,179頁より引用
  8. ^ 宇野1985,178-179頁
  9. ^ a b 宇野1985,180頁
  10. ^ 宇野1985,181頁
  11. ^ 宇野1985,181-182頁
  12. ^ 宇野1985,182頁
  13. ^ a b 宇野1985,178頁
  14. ^ 訳文は宇野1985,178頁より引用
  15. ^ 宇野1985,174頁
  16. ^ 安木2020,14-16頁
  17. ^ a b 安木2020,16-17頁
  18. ^ a b c 宇野1985,175頁
  19. ^ 安木2020,17-18頁
  20. ^ 宇野1985,176頁
  21. ^ 安木2020,18頁
  22. ^ 安木2020,19頁
  23. ^ 安木2020,19-20頁
  24. ^ 安木2020,20-21頁
  25. ^ 安木2020,21頁
  26. ^ 安木2020,21-22頁
  27. ^ a b c 安木2020,22頁
  28. ^ a b 安木2020,23頁
  29. ^ 安木2020,23-24頁
  30. ^ a b 安木2020,24頁
  31. ^ 安木2020,25頁
  32. ^ a b 安木2020,26頁
  33. ^ 安木2020,29頁
  34. ^ 安木2020.30頁

参考文献

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  • 宇野伸浩「ホイン・イルゲン考-モンゴル帝国・元朝期の森林諸部族-」『早稲田大学文学研究科紀要別冊哲学・史学編』別冊12、1986年
  • 杉山正明「知られざる最初の東西衝突」『ユーラシア中央域の歴史構図-13~15世紀の東西』総合地球環境学研究所イリプロジェクト、2010年
  • 村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 安木新一郎「「森の民」に関する覚書 ―モンゴル帝国支配下のシベリア―」『函館大学論究』52巻1号、2020年