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ペルセウス (マケドニア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ペルセウス
Περσεύς
マケドニア王
ペルセウスのテトラドラクマ
在位 紀元前179年 - 紀元前168年

出生 紀元前212年
死去 紀元前168年
配偶者 ラオディケ5世
子女 ピリッポス
アレクサンドロス
王朝 アンティゴノス朝
父親 ピリッポス5世
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ペルセウス: Περσεύς, ラテン文字表記:Perseus, 在位:紀元前179年 - 紀元前168年)は、アンティゴノス朝マケドニア最後の王である。マケドニアのペルセウスと呼ばれることもある。新興目覚しかった共和政ローマと対立し、第三次マケドニア戦争を勃発させするも敗北。廃位され、ここにアンティゴノス朝は滅亡した。

紀元前179年、父ピリッポス5世が没するとペルセウスは王位に就いた。前年にはペルセウスの讒言で王族内でのローマの擁護者であった弟デメトリオスが処刑されている。ローマの外交を担っていたデメトリオスの活躍にペルセウスは嫉妬し、父ピリッポスをけしかけてデメトリオスを王位簒奪者として断罪、処刑させたと言う。これによりマケドニアとローマの関係は冷却した。

ペルセウスが王位に就くとローマとの関係が見直され、マケドニアは反ローマの姿勢を示した。ペルセウスはデルフォイを訪問する際に軍隊を率いて赴き、またローマの元老院から送られてくる外交担当者を蔑ろにした。これらはローマにマケドニアとの関係の再考を促す結果となった。

紀元前171年に第三次マケドニア戦争が勃発。ペルセウスは戦争初期にはある程度の成功を収めるものの、次第に状況はマケドニアに不利となった。紀元前168年ピュドナの戦いで致命的な敗北を喫すると、ローマの司令官ルキウス・アエミリウス・パウッルスの前に降伏した。

降伏後、ペルセウスは捕虜として獄につながれて廃位され、マケドニアは4つの共和国に分割され、これを以ってアンティゴノス朝マケドニア王国は同年に滅亡した。第四次マケドニア戦争でローマに反乱を起こしたものの、マケドニアはローマに吸収され、紀元前146年マケドニア属州が置かれた。

2005年イタリアラクイラ県マリャーノ・デ・マルシ近郊のヴァレリア街道沿いにペルセウスの墓石が発見され、イタリア政府文化庁およびマケドニア共和国政府の調査を受け、注目を浴びた。

子女

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シリアセレウコス4世の娘ラオディケ5世と結婚し、以下の子女をもうけた。

  • ピリッポス
  • アレクサンドロス