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ベヒストゥン碑文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベヒストゥーン碑文から転送)
ダレイオス1世が反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ
描かれている人物は左から順に、槍持ち、弓持ち、ダレイオス1世。彼は僭称者ガウマタを踏みつけている。さらにその右に命乞いをする9名の反乱指導者がいる。左からアーシナ(エラム)、ナディンタバイラ(バビロニア)、フラワルティ(メディア)、マルティヤ(エラム)、チサンタクマ(アサガルタ)、ワフヤズダータ(ペルシア)、アラカ(バビロニア)、フラーダ(マルギアナ)、最後尾の尖帽をかぶっている人物はスクンカ英語版サカ)。

ベヒストゥン碑文 (ベヒストゥンひぶん、: The Behistun Inscription, ペルシア語: بیستونBīsotūn)は、アケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世)が、自らの即位の経緯とその正統性を主張する文章とレリーフを刻んだ巨大な磨崖碑イラン西部のケルマーンシャー州にある。

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名称

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現代ペルシア語での名称はビーソトゥーン(ペルシア語: بیستون‎)であり、世界遺産の登録英語名も Bisotun になっている[1]。この語は bī- (…のない)+ sotūn (柱)からなり、文字通りには「無柱」という意味である。

ディオドロスの『歴史叢書』2.13.1 に Βαγίστανον バギスタノン と記されていることから、古代ペルシア語の名前は *Bagastāna (神の地)だったと考えられている[2]。これに対応する中期ペルシア語の形は *Bahistān になるはずだが、中世アラブの地理書には実際にはペルシア語 Bahestūn/Behestūn を反映した形で現れる[2]

概要

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フリードリヒ・シュピーゲルによるスケッチ(1881年)

ダレイオス1世の碑文は地上100m以上の高い場所にあり[3]、高さ3m・幅 5.5m の浮き彫りの周辺に、同じ内容の長文のテキストが、エラム語古代ペルシア語アッカド語(新バビロニア語)という3つの異なった言語で書かれている。当初はエラム語の碑文のみであったが、壁画像を追加する段階でアッカド語と古代ペルシア語の碑文も増補されたと見られている。

エラム語は2箇所にほぼ同じ内容のものが書かれ、第1のものは323行、第2のものは260行からなる。アッカド語は112行からなる。古代ペルシア語は合計414行からなる[4]。ベヒストゥン碑文は古代ペルシア語の現存する最古の碑文である[5]。また、浮き彫りの余白部分にも数多くの小碑文が掘られており、その大部分は浮き彫りで描かれた人物の説明である[6]

碑文と同じ内容が記されたものがエジプトのエレファンティネ島出土のパピルス文書群から発見されている[7]。このエレファンティネ島の文書から発見されたベヒストゥン碑文の写しは、アッカド語版を底本にアラム語に翻訳されたものであり、断簡ではあるが重要な資料である[7]。またバビロニアからアッカド語版の断簡が発見されている[8]

解読

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古代ペルシア語は近代歴史学史上、初めて解読された楔形文字の言語である[9]18世紀ヨーロッパからの旅行者がペルセポリスを訪れたことによって楔形文字が再発見され(当初は装飾文様と考えられていたが)、その後デンマークによる探検隊の隊員ニーブールがその正確なコピーをヨーロッパに持ち帰った[10]。ドイツ人グローテフェントが、ニーブールのコピーを元に解読を試み、1802年までには彼なりの解読を終えていた[9]

しかし、当時知られていた楔形文字(古代ペルシア語)の文書は短文ばかりであり、詳しい分析のためにはより長いテキストが必要であった。それをもたらしたのがイギリス軍武官のヘンリー・ローリンソンによるベヒストゥン碑文の解読であった。彼は岸壁によじのぼって碑文を写し取るという困難な作業を10年以上に渡ってやり遂げ、1846年以降に全文と古代ペルシア語部分の翻訳を発表した[3]。彼の努力は報われるものであった。ベヒストゥン碑文にはダレイオス1世時代の多数の民族の名前が記録されており、ギリシア語の史書やサンスクリットアヴェスター語との対照によって多数の古代ペルシア語の楔形文字の音価を確定することができた[9]。グローテフェント以来の古代ペルシア語の解読はここにほぼ完成した。ローリンソンはまたエドワード・ヒンクスの研究を元にして、アッカド語部分の解読を1851年に発表した[11]。1852年にはエドウィン・ノリスがエラム語部分の解読を発表した[12][13]。エラム語部分の解読は、エラム語が既知の言語との親族関係を持たなかったため難航した[注釈 1]。しかし、ローリンソンから研究ノートを譲られたノリスは1855年までにはその大部分を解読することに成功した[9]。これらの結果は楔形文字と古代メソポタミアの研究に大きな進展をもたらした。

内容

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ベヒストゥン碑文の文章は、アケメネス朝の王ダレイオス1世(在位:紀元前522年-紀元前486年)がその出自、支配する領域、アウラマズダー神から委ねられた王位、反乱の鎮圧について同語反復的な表現で自ら語るというスタイルを取る。碑文はまず冒頭でアケメネス以来の家系を記し、ダレイオス1世が正統な王家の血統に連なる事を示す。

  1. 余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、パールサ(ペルシア)の王、諸邦の王、ウィシュタースパの子、アルシャーマの孫、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
  2. 王ダーラヤワウは告げる、余の父はウィシュタースパ、ウィシュタースパの父はアルシャーマ、アルシャーマの父はアリヤーラムナ、アリヤーラムナの父はチャイシュピ、チャイシュピの父はハカーマニシュ。
  3. 王ダーラヤワウは告げる、このゆえに、われらはハカーマニシュ家と呼ばれる。往昔よりわれらは勢家である。往昔よりわれらの一門は王家であった。
  4. 王ダーラヤワウは告げる、我が一門にしてさきに王たりしは八人、余は第九位。二系にわかれて九人、われらは王である。
  5. 王ダーラヤワウは告げる、アウラマズダーの御意によって余は王である。アウラマズダーは王国を余に授け給うた。

-ベヒストゥン碑文古代ペルシア語版、第一欄冒頭より[14]

続いて、ダレイオス1世が支配していたアケメネス朝の版図を記す。

  1. 王ダーラヤワウは告げる、余に帰属したこれらの邦々-アウラマズダーの御意によって余はその王となった。パールサウーウジャバービルアスラーアラバーヤムドラーヤ、海辺の人々、スパルダヤウナマーダアルミナカトパトゥカパルサワズランカハライワ(アレイア)、ウワーラズミーバークトリスグダガンダーラサカサタグハラウワティマカ、計、二十三邦(ダフユ)。

-ベヒストゥン碑文古代ペルシア語版、第一欄冒頭より[14]

そしてカンビュセス2世が兄弟のスメルディスをひそかに殺したが、その後にガウマータという人物がスメルディスを自称してカンビュセス2世から国を奪い、王家の人物を粛清したこと、しかしダレイオス1世がアフラ・マズダーの加護によってガウマータを倒して王位についたこと、その後に各地で反乱が起きたがそれらを鎮圧したこと、とんがり帽子のサカに遠征したことなどを記す。この反乱の鎮圧はダレイオス1世自身の系譜の提示と並び碑文の主題であり、最大の分量を占める[14]

また、ダレイオス1世は、この碑文に登場する「至高神アウラマズダーの御意によって、王となりえた」と記し、一種の王権神授説を示している。このアウラマズダーは一般にゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーを指すとされ、ゾロアスター教が国の権威であることが示されているとされる[15]。ただし、アケメネス朝時代の宗教をゾロアスター教と定義することについては議論があり、様々な説が提出されている[注釈 2]。いずれにせよ、アケメネス朝時代の「ゾロアスター教」は後のサーサーン朝時代のゾロアスター教や現代のゾロアスター教とは大きく異なった姿をしていたと考えられており、また一元的な国教の存在を想定することはできないと考えられている[18]

第四欄の末尾には、この碑文の内容が粘土板と皮革に転写され読み上げられたこと、そして支配下にある諸邦へ送付されたことが記されており、先に述べたエレファンティネ島のアラム語版やバビロニアのアッカド語版断簡はこれの実物と見られる[8]

世界遺産

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座標: 北緯34度23分26秒 東経47度26分9秒 / 北緯34.39056度 東経47.43583度 / 34.39056; 47.43583

世界遺産 ベヒストゥン
イラン
ベヒストゥンの磨崖にある碑文
ベヒストゥンの磨崖にある碑文
英名 Bisotun
仏名 Behistun
面積 187 ha
(緩衝地域361 ha)
登録区分 文化遺産
登録基準 (2), (3)
登録年 2006年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

2006年に碑文を含む磨崖がユネスコ世界遺産に登録された。

登録基準

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この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

注釈

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  1. ^ 古代ペルシア語はインド・ヨーロッパ語族に属し、中世ペルシア語パフレヴィー語、サンスクリット、アヴェスター語等と近しい関係を持つ。またアッカド語はアフロ・アジア語族に属し、アラビア語やアラム語、ヘブライ語と関係がある。
  2. ^ 碑文中にゾロアスター(ザラスシュトラ)への言及はなく、またゾロアスター教においてアフラ・マズダーと対を為す悪神アーリマンへの言及もない[16]エミール・バンヴェニストは、当時のアケメネス朝の宗教について、はっきりとそれが「ゾロアスター教」であることを示すいかなる証拠も存在しないとし、アウラマズダーという神格はゾロアスター教よりも古い起源を持つものであると指摘する[16]。そしてこの時期に存在したアケメネス朝の宗教はギリシア人たちが記録したペルシア人の宗教である「マゴスの宗教」とも「ゾロアスター教」とも異なる「マズダー教」とでも呼ぶべきものであったとする[16]。一方で、ゲラルド・ニョリはマズダー教とゾロアスター教を等価として扱えるものであるとし、アケメネス朝の宗教はゾロアスター教であったと確言する[17]

脚注

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  1. ^ World Heritage Centre: The List: Bisotun”. UNESCO. 2015年7月23日閲覧。
  2. ^ a b Rüdiger Schmitt (1989). “BISOTUN i. Introduction”. イラン百科事典. IV, Fasc. 3. pp. 289-290. http://www.iranicaonline.org/articles/bisotun-i 
  3. ^ a b 関根 (1964) p.122
  4. ^ Rüdiger Schmitt (1989). “BISOTUN iii. Darius's Inscriptions”. イラン百科事典. IV, Fasc. 3. pp. 299-305. http://www.iranicaonline.org/articles/bisotun-iii 
  5. ^ Rüdiger Schmitt (1993). “CUNEIFORM SCRIPT”. イラン百科事典. VI, Fasc. 5. pp. 456-462. http://www.iranicaonline.org/articles/cuneiform-script 
  6. ^ 伊藤 1974, pp. 14-21
  7. ^ a b 伊藤 1974, pp. 55-68
  8. ^ a b 伊藤 1974, pp. 243-244
  9. ^ a b c d ウォーカー 1995, pp. 90-99
  10. ^ 前田 2003
  11. ^ 関根 (1964) p.130
  12. ^ 関根 (1964) p.147
  13. ^ Norris, Edwin (1855). “Memoir on the Scythic Version of the Behistun Inscription”. Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland 15. https://archive.org/stream/jstor-25228656/25228656#page/n1/mode/2up. 
  14. ^ a b c 伊藤 1974, pp. 22-50
  15. ^ P・R・ハーツ『ゾロアスター教』P.59
  16. ^ a b c バンヴェニスト 1996, pp. 12-44
  17. ^ ニョリ 1996, pp. 12-44
  18. ^ 青木 2006

参考文献

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  • 関根正雄 著「楔形文字の解読」、高津春繁; 関根正雄 編『古代文字の解読』岩波書店、1964年、99-149頁。 
  • 伊藤義教『古代ペルシア』岩波書店、1974年1月。ISBN 978-4007301551 
  • クリストファー・ウォーカー『楔形文字』学芸書林大英博物館双書〉、1995年11月。ISBN 978-4-87517-011-2 
  • エミール・バンヴェニストゲラルド・ニョリ『ゾロアスター教論考』平凡社、1996年12月。ISBN 978-4-582-80609-0 
  • 菊池徹夫 編『文字の考古学』同成社〈世界の考古学〉、2003年3月。ISBN 4-88621-267-0 
  • 青木健『ゾロアスター教の興亡 -サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ-』刀水書房、2006年12月。ISBN 978-4007301551 

外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、ベヒストゥン碑文に関するカテゴリがあります。
  • OLD PERSIAN TEXTS”. Avesta -- Zoroastrian Archives. 2015年7月23日閲覧。 (古代ペルシア語部分の全文の翻字と英訳)