ベイビー・フェイス・ウィレット
ベイビー・フェイス・ウィレット Baby Face Willette | |
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出生名 | Roosevelt Willette |
生誕 | 1933年9月11日 |
出身地 | アメリカ合衆国 |
死没 | 1971年4月1日(37歳没) |
ジャンル | ハード・バップ、ソウル・ジャズ |
担当楽器 | ハモンドオルガン |
ベイビー・フェイス・ウィレット(Baby Face Willette、1933年9月11日 - 1971年4月1日)は、アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン。ハモンドオルガンを演奏してビバップ、ハード・バップやソウル・ジャズの分野で活動した。ジミー・スミスの活動に触発されているが、演奏様式はゴスペルやソウル・ジャズに色濃く影響されている。出身地が、アーカンソー州のリトルロックなのか、それともルイジアナ州のニューオーリンズなのかは未だに定かでない[1]。ブルーノート・レコード[2]に録音を残している。ジミー・スミスやブラザー・ジャック・マクダフ、ジミー・マクグリフとともに、ソウル・ジャズ、オルガン・ジャズの代表格とされている。
略歴
[編集]父親は聖職者で、宣教師の母親は教会でピアノを弾いていた。したがってウィレットの音楽のルーツはゴスペルだった。
ピアノを独学すると、さまざまなゴスペル・グループのためにピアノで伴奏を付けるようになり、早くからアメリカ国内だけでなく、カナダやキューバで演奏旅行を行なった[3]。シカゴにおいて、ゴスペルやリズム・アンド・ブルースから、ジャズ・バンドでの演奏に転身することを決意する。キング・コラックスやジョー・ヒューストン、ジョニー・オーティス、ビッグ・ジェイ・マクニーリーのそれぞれの楽団でピアニストを経験した後、オルガニストに転向する。1960年にニューヨーク入りしてルー・ドナルドソンとグラント・グリーンに出逢い、ブルーノート・レコードの数回のセッションで2人と共演した。その結果、ブルーノート・レコードと契約することになり、デビュー・アルバムの『フェイス・トゥ・フェイス』を録音した[3]。1963年には自身のトリオを結成して、アーゴ・レーベルに2枚のアルバムを遺している[1]。
ニューヨークとカリフォルニアで倹しい生活を送った後、家族の待つシカゴに戻らざるを得なくなり、1971年に同地で夭折した。
私生活
[編集]- プロの美容師でもあった。
- ニューヨークに進出するまではミルウォーキーの外れに拠点を置いて、歌手でもあった妻ジョー・ギブソンといくつかのクラブで共演した。
- ケヴィン・ベイリー(Kevin D. Bailey)という名の息子がいる。
ディスコグラフィ
[編集]リーダー・アルバム
[編集]- 『フェイス・トゥ・フェイス』 - Face to Face (1961年、Blue Note)
- 『ストップ・アンド・リッスン』 - Stop and Listen (1961年、Blue Note)
- 『モー・ロック』 - Mo' Rock (1964年、Argo)
- 『ビハインド・ジ・エイト・ボール』 - Behind the 8 Ball (1965年、Argo)
参加アルバム
[編集]- ルー・ドナルドソン : 『ヒア・ティス』 - Here 'Tis (1961年、Blue Note)
- グラント・グリーン : 『グランツ・ファースト・スタンド』 - Grant's First Stand (1961年、Blue Note)
関連項目
[編集]出典/脚注
[編集]- ^ a b Allmusic Biography "Baby Face" Willette Accessed: 2012-07-22
- ^ http://www.bluenote.com/artists/baby-face-willette
- ^ a b Robert Levin, Booklet of Face to Face