ヘイリヘルレーの戦い (1568年)
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ヘイリヘルレーの戦い | |
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ヘイリヘルレーの戦い | |
戦争:八十年戦争 | |
年月日:1568年5月23日 | |
場所:フローニンゲン、ヘイリヘルレー | |
結果:反乱軍の勝利[1] | |
交戦勢力 | |
オランダ反乱軍 | スペイン領フリースラント |
指導者・指揮官 | |
ローデウェイク・ファン・ナッサウ アドルフ・ファン・ナッサウ †[2] |
ジャン・ド・リーニュ †[3] |
戦力 | |
歩兵3,900 騎兵200 |
歩兵3,200 騎兵20 |
損害 | |
死傷者50 | 死傷者と捕虜1,500–2,000 大砲7門 |
Template:Campaignbox 八十年戦争 | |
ヘイリヘルレーの戦い(ヘイリヘルレーのたたかい、オランダ語: Slag bij Heiligerlee)は、1568年5月23日にフローニンゲンのヘイリヘルレーで行われた[3]、オランダ反乱軍とスペイン領フリースラント軍の間の戦闘。八十年戦争中、オランダがはじめて勝利した戦闘である。
ネーデルラント17州の一つであるフローニンゲン州はローデウェイク・ファン・ナッサウ率いる歩兵3,900人とアドルフ・ファン・ナッサウ率いる騎兵200人の侵攻を受けた。2人ともオラニエ公ウィレム1世の弟であり、その侵攻はスペイン統治に対する武装蜂起のはじまりであった。
フリースラント州総督兼アレンベルク公のジャン・ド・リーニュは歩兵3,200人と騎兵20人を率いた。彼ははじめ会戦を避けてメーヘン伯爵からの増援を待とうとしたが、5月23日にはアドルフの騎兵によりヘイリヘルレーの修道院での戦闘に誘われてしまった。反乱軍の大半を占めるローデウェイクの歩兵はスペイン軍に勝利、スペイン軍が1,500から2,000人を失った一方、反乱軍はアドルフを含む50人の損害しか出さなかった。反乱軍は大砲7門を鹵獲した。
しかし、反乱軍は城塞の奪取ができず、2か月後のイェミンヘンの戦いにはスペイン軍に敗北した。
アドルフ・ファン・ナッサウの死は現オランダ国歌『ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ』の4番で言及されている。
- (オランダ語)Graef Adolff is ghebleven, In Vriesland in den slaech,
- (英語訳)Count Adolf, more's the pity, Fell in the Frisian fray,
脚注
[編集]- ^ Dupuy, R. Ernest and Trevor N. Dupuy, Harper Encyclopedia of Military History, (HarperCollins Publishers, 1993), 528.
- ^ Menzel, Wolfgang, The history of Germany: from the earliest period to 1842, Vol.2, (George Bell & sons, 1908), 293.
- ^ a b Laffin, John, Brassey's Dictionary of Battles, (Barnes & Noble Inc., 1995), 194.
参考文献
[編集]- Dupuy, R. Ernest and Trevor N. Dupuy, The Harper Encyclopedia of Military History, (HarperCollins Publishers, 1993.
- Laffin, John, Brassey's Dictionary of Battles, Barnes & Noble Inc., 1995.
- Menzel, Wolfgang, The history of Germany: from the earliest period to 1842, Vol.2, George Bell & sons, 1908.