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ヘアリィ・モカシン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘアリィ・モカシン
アメリカ側で戦いに参加したクロウ斥候隊。左からホワイトマン・ランズ・ヒム、ヘアリィ・モカシン、カーリー英語版ゴーズ・アヘッドである。彼らは戦いから生き延びた。1913年に戦場跡に集まり、この写真を撮った。
生誕1854年
死没1922年10月9日 1922年(67 - 68歳没)
モンタナ州
所属組織アメリカ合衆国の旗 アメリカ
部門 アメリカ陸軍
軍歴1876–77
最終階級インディアン斥候隊
部隊第7騎兵連隊
戦闘インディアン戦争

ヘアリィ・モカシン英語Hairy Moccasin、あるいはEsh-sup-pee-me-shish1854年 - 1922年10月9日)は、インディアンクロウ出身の戦士。ジョージ・アームストロング・カスター中佐第7騎兵連隊に、斥候隊として所属し、リトルビッグホーンの戦いに参加した[1]

経歴

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1876年4月10日、ヘアリィ・モカシンはアメリカ陸軍に志願し、インディアン斥候隊に加わった。同年に起こったリトルビッグホーンの戦いでは、同じくクロウ出身のハーフ・イエローフェイス英語版が率いる隊に配属された。隊には、ヘアリィ・モカシンの他にホワイトマン・ランズ・ヒムホワイト・スワン英語版カーリー英語版ゴーズ・アヘッドがいた。彼らは全員がクロウの出であった。この戦いで攻撃対象となっていたスーシャイアンは、クロウにとって古くからの敵であった。

この戦いでは、カスターの部隊よりも、遥かに敵の数が多かった。ヘアリィ・モカシンも、他の斥候も、口を揃えて勝ち目が薄い事をカスターに警告した。しかし、戦果に逸るカスターはこの忠告を顧みず、戦いに突き進んだ。ヘアリィ・モカシンたちクロウの者は、この戦いで勝つことは難しいと感じ、せめてアメリカ軍ではなくクロウの戦士として死にたいと考えて、アメリカ軍の軍服から、伝統的なクロウの戦士の服へと着替えた。この彼らの行動を敗北主義的と感じたカスターは激怒し、彼らを自分の部隊から叩き出した。戦いが始まる1時間前の出来事であった。ヘアリィ・モカシンたち6人の戦士は、副官マーカス・リノの部隊に移り、そこで戦いに望んだ。リノの部隊は追い詰められたが、ほぼ全滅したカスターの部隊と異なり、生き残った者は少なからずいた。ハーフ・イエローフェイスが率いた6人の戦士もまた、同様に生き残った[2]

ブラックヒルズ戦争が終わった後、ヘアリィ・モカシンは隊を離れ、モンタナ州インディアン居留地に住まいを移した。1922年10月9日、ロッジグラスの近くで死亡した[1]

脚注

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  1. ^ a b Wagner III, Frederic C. (2011). Participants in the Battle of the Little Big Horn: A Biographical Dictionary of Sioux, Cheyenne and United States Military Personnel. McFarland. pp. 109–110. ISBN 978-0-7864-8490-4. https://books.google.com/books?id=bFONAgAAQBAJ&pg=PA109 
  2. ^ Gray, John S. (1993). Custer's Last Campaign: Mitch Boyer and the Little Bighorn Reconstructed. Omaha, Nebraska: U of Nebraska Press. pp. 344, 351. ISBN 0-8032-7040-2. https://books.google.com/books?id=2wXFvLZrO78C&pg=PA344 

関連項目

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