プルディリ
Ploudiry | |
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行政 | |
国 | フランスの旗 フランス |
地域圏 (Région) | ブルターニュ地域圏 |
県 (département) | フィニステール県 |
郡 (arrondissement) | ブレスト郡 |
小郡 (canton) | 小郡庁所在地 |
INSEEコード | 29180 |
郵便番号 | 29800 |
市長(任期) |
ジャン=ジャック・ピトン (2008年 - 2014年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes du Pays de Landerneau-Daoulas |
人口動態 | |
人口 |
895人 (2010年) |
人口密度 | 33人/km2 |
住民の呼称 | Ploudiryen, Ploudiryenne |
地理 | |
座標 | 北緯48度27分 西経4度09分 / 北緯48.45度 西経4.15度座標: 北緯48度27分 西経4度09分 / 北緯48.45度 西経4.15度 |
標高 |
平均:m 最低:23m 最高:191m |
面積 | 27.19km2 |
公式サイト | Site de la commune |
プルディリ (Ploudiry、ブルトン語:Plouziri)は、フランス、ブルターニュ地域圏、フィニステール県のコミューン。
歴史
[編集]プルディリは、かつて非常に重要な教区で、パンクラン、ロック=エギネール、ラ・ロッシュ(現在のラ・ロッシュ=モーリス)、ラ・マルティル、ポン・クリスト(現在のラ・ロッシュ=モーリス)といった小教区を抱えていた。現在はポン・クリストを除いた全部がコミューンとなっている。教区にはサン・ジュリアン・アン・ランデルノー(現在のランデルノー)すら含まれ、さらに昔にはル・トレウーとトレフレネヴェズが含まれていた。サン・ピエール教区教会は、ダウラ修道院に属する小修道院でもあった[1]。ラ・ロッシュ=モーリス、ブレゼル、プルネヴェンテルに拠点をおいたロアン家の領主たちは、聖域内で領主が優先される権利(fr)を求めて争っていた。
1173年、教区の名はPloediriとして記されている。
名前の知られている最初の小修道院長兼教区司祭は15世紀のオリヴィエ・ド・メスゴーズである。1770年頃、プルディリとその小教区には約4700人の住民がおり、プルディリだけで1320人がいた。
ル・ニィ(Le Ny)家は、1436年から1534年の間、プルディリとトーレ、ル・ドレネック、ランドゥーザン、ギクラン、サン=テゴネックの監視と再編(fr)に参加した古い騎士の家系から出た一族である。この一族は、トレブリ、ペナンゲール、イル・イヴォン、プルディリといった場所の領主であった[2]。
プルディリのジュロ
[編集]プルディリは、高レオン地方の、17世紀から18世紀の間非常に栄えた帆布産業の中心であった。ジャン・フランソワ・ブルミシュは1830年代にこう記している。『プルディリで帆布を商う農民(ジュロ、fr)は、6千、1万、または12,000フランの収入がある。』[3]。プルディリのシャルロット・ベルトゥが1742年に死んだとき、20,256リーブルの遺産(その73%は帆布と糸)を残した。40箇所のkanndi(洗濯場)が現在のプルディリのコミューン域内で確認されており、これはプルネウール=メネズ、コマナ、シザンに次いで多い。織り機の数が密集しており(一軒の家に複数の織り機があった)、高レオン地方の帆布製造地域全体での平均55%から60%に対して高かった[4]。
プルディリで最も有名なジュロは、アラン・プリケン(1736年-1807年)である。
1789年4月、レスネヴァンのセネシャルにあてて出された第三身分陳情書に、プルディリ教区の2名の代表、アラン・プリケンとオリヴィエ・レオンが署名した[5]。
1802年5月9日、ギミリオーのケレオン集落で休憩を取ったあと、ジャン・フランソワ・ド・バル(fr)率いる7人のシュアンたちが、資産家で帆布商取引をしているアラン・プリケンを人質にとった。プリケンはド・バルに殺すと脅され、彼の子供たちに手紙を書かされ3万リーブルの身代金がド・バルに奪われた。人質が最終的に解放されたのは1802年の5月30日だった[6]。
人口統計
[編集]1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2010年 |
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854 | 770 | 677 | 736 | 822 | 809 | 887 | 895 |
参照元:1999年までEHESS[7]、2000年以降INSEE[8][9]
史跡
[編集]- サン・ピエール教区教会 - 1854年から1857年にかけ建築家ジョセフ・ビゴによって再建された。アプスなど、教会の古い部分を残している。
- 納骨堂 - 1635年にサン・ジョセフ礼拝堂に転換されたが、1731年に元の納骨堂に戻された。
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教会のポーチ
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祭壇
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礼拝行進で掲げられるバニエール(旗)
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納骨堂
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納骨堂に刻まれたアンクー
脚注
[編集]- ^ Jean-Martial Besse et Charles Beaunier, "Abbayes et prieurés de l'ancienne France,.... 8, Province ecclésiastique de Tours", A. Picard et fils, Paris, 1920, consultable http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5859266j/f299.image.r=Ploudiry.langFR
- ^ Joseph-Marie de Kersauson de Pennendreff, "Histoire généalogique de la maison de Kersauson", 1886, consultable http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k55649073/f224.image.r=Ploudiry.langFR
- ^ Jean-François Brousmiche, Voyage dans le Finistère en 1829, 1830 et 1831, Quimper, réédition 1977, page 10
- ^ Andrée Le Gall-Sanquer, Jean-Luc Richard, Marie-Louise Richard, "L'or bleu (An aour glaz) : le lin au pays de Landerneau-Daoulas", Association Dourdon, Cloître Imprimeurs, 2005, [ISBN 2-9505493-1-4]
- ^ J. Madival et E. Laurent, "fr:Archives parlementaires de 1787 à 1860 : recueil complet des débats législatifs et politiques des Chambres françaises" , imprimé par ordre du Corps législatif. 1er série, 1787-1799, consultable http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k480097g/f496.image.r=Locquenole.langFR
- ^ Daniel Bernard, Recherches sur la Chouannerie dans le Finistère", revue "Annales de Bretagne", n°3 et 4, année 1937, consultable http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k115338s/f354.image.r=Guerlesquin.langFR
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=27198
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr