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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ
P. Cornelius P. f. P. n. Scipio Nasica Serapio
出生 紀元前183年
死没 紀元前132年
出身階級 パトリキ
一族 スキピオ家
氏族 コルネリウス氏族
官職 トリブヌス・ミリトゥム紀元前149年
法務官紀元前141年
最高神祇官紀元前141年頃-132年
執政官紀元前138年
レガトゥス紀元前132年
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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオラテン語: Publius Cornelius Scipio Nasica Serapio, 紀元前183年頃 - 紀元前132年)は、共和政ローマの政治家、軍人。元老院議員であり、紀元前138年執政官をつとめた。一般にはスキピオ・ナシカ(Scipio Nasica)として知られる。

一族

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名門スキピオ家の出で、グラックス兄弟とは従兄弟にあたる。

父方

母方

略歴

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スキピオ・ナシカはポエニ戦争後、ローマ社会が疲弊する中でも古来の元老院の権威を保持しようとした保守派に属し、ティベリウス・グラックスの進めたセンプロニウス法案に反対する立場、すなわちティベリウスの政敵の中心人物であった。

また彼は恐らくティベリウスの殺害に関わったか、少なくともティベリウス殺害のきっかけを作った人間として考えられている。ティベリウスが報復のために殺された時に、彼はローマ社会の権威秩序を護るはずの最高神祇官であるにもかかわらず、元老院から偽装のためにアシア属州への視察に出かけ、見殺しにしたという。その際に彼は「ティベリウスは王となろうとしたのだ」と言ったと伝えられる。

ティベリウスが殺された後、暴動を見逃したことから民衆の怒りを買い、自発的に国外退去する。そしてすぐにペルガモンにて没した。

関連項目

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公職
先代
グナエウス・カルプルニウス・ピソ
マルクス・ポピッリウス・ラエナス
執政官
同僚:デキムス・ユニウス・ブルトゥス・カッライクス
紀元前138年
次代
マルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナ
ガイウス・ホスティリウス・マンキヌス
宗教の称号
先代
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム
ローマ最高神祇官
紀元前141年 – 紀元前132年
次代
プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス