ブルース・リー
ブルース・リー 李小龍 Bruce Lee | |
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基本情報 | |
繁体字 | 李小龍 |
簡体字 | 李小龙 |
漢語拼音 | Lǐ Xiǎolóng |
粤拼 | Lei5 Siu2lung4 |
出生名 |
李 振藩(リー・ジャンファン、り しんはん) 拼音: 粤拼: Lei5 Zan3faan4 または lei junfan[注 1] |
出身地 | イギリス領香港 |
生誕 |
1940年11月27日 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ |
死没 |
1973年7月20日 (32歳没) イギリス領香港九龍塘(現・ 香港九龍塘) |
墓地 |
アメリカ合衆国 ワシントン州シアトル レイク・ビュー墓地 |
別名 |
李源鑫(族名) 李元鑒(学名) 李鑫(芸名) 李敏(芸名) 新李海泉(芸名) 小李海泉(芸名) 李龍(芸名) 細鳳(幼名) |
英語名 | Bruce Lee |
職業 | 武道家、アクション映画俳優、脚本家、映画プロデューサー |
活動期間 | 1941年 - 1973年 |
配偶者 | リンダ・リー(1964年 - 1973年) |
子供 |
ブランドン・リー(李國豪、1965年 - 1993年) シャノン・リー(李香凝、1969年) |
親 |
李海泉(1901年 - 1965年) 何愛瑜(1907年 - 1996年) |
兄弟姉妹 |
李振輝(1948年) 李忠琛(1939年 - 2008年) |
祖籍 | 中華人民共和国広東省仏山市順徳区 |
影響 |
チャウ・シンチー(小龍會の会長) ドニー・イェン |
公式サイト |
Bruce Lee Foundation The Official Website of Bruce Lee |
ブルース・リー(中: 李 小龍、日本漢字音読み:り しょうりゅう[1]、粤拼: Lei5 Siu2 Lung4、英: Bruce Lee、1940年11月27日 - 1973年7月20日)は、香港人の中国武術家、武道家、俳優、哲学者。截拳道を創始したマーシャルアーティストとして知られる。本名は李 振藩(リー・ジャンファン、り しんはん、英: Lee Jun-fan、粤拼: ……Lei5 Zan3 Faan4)。身長については167~175cmと諸説あるが、実際に面会した人の証言などから170cm弱とされている。体重64kg。墓碑銘は『FOUNDER OF JEET KUNE DO(「截拳道の創始者」の意)』。リンダ・リー(旧姓エメリー)との間に一男一女。息子はブランドン・リー、娘はシャノン・リー。
経歴
[編集]出生・幼少時代
[編集]父親の中国系で広東オペラの役者の李海泉と、白人(ドイツ人、イギリス人など諸説あり)と中国人のハーフの母・何愛瑜(香港の実業家何甘棠[注 2] の娘)が家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、辰の刻(午前8時)にサンフランシスコの中華街の病院で生まれた。5人兄弟の次男、兄弟には、姉フィービー・リー(李秋圓)、アグネス・リー(李秋鳳)、兄・ピーター・リー(李忠琛)がいた。弟・ロバート・リー(李振輝)は、8歳下である。映画には芸名の李小龍で出演している。生後3ヶ月あまりでサンフランシスコで製作された映画『金門女』(広東語映画)に出演した。
その後イギリスの植民地下の香港に帰国。1941年12月から日本とイギリスの「香港の戦い」で日本軍勝利により、日本占領下におかれ映画の製作が止まったために出演作はないが、1945年8月に第二次世界大戦が終了後、製作が再開された8歳頃から子役として数多くの映画に出演。 また中華民国の上海精武体育会香港分会にて北派少林拳の邵漢生に指導を受け、節拳(弾腿門)などを学んだ[注 3]。
また1953年13歳のブルース・リーは、詠春拳の使い手である葉問のもとで修業し喧嘩に詠春拳を使うため3年で破門となり、2年間兄弟子に教わる。その後ブルース・リーは高校ボクシング大会に出場しチャンピオンのイギリス人を1RでKOする。
渡米・結婚
[編集]しかし、何不自由なく育ち、日々喧嘩に明け暮れ、「俳優の不良息子」として悪名を知られたブルース・リーの将来を心配した父は、香港から渡米を命じる。18歳のリーは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。
新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校のシアトル・セントラル・カレッジに通い高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。
集まる生徒は日本人や中国人、それに黒人や白人にラテン系もいた。高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。
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リンダ夫人
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生まれたばかりの息子・ブランドンと
武道家からアクションスターへ
[編集]1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスク[注 4] をつけた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。
これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる[注 5]。『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願ったが、東洋人であることなどを理由に叶わなかった[注 6]。
1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。
主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。
1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。しかしハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。
1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。かつて『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出した。
死去
[編集]1973年7月20日、リーは『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼びそのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。32歳没。
公式な死因は脳浮腫である。司法解剖の結果、微量の大麻が検出された。検死報告によると、リーの脳は1,400gから1,575g(13%の増加)まで膨らんでおり、頭蓋内圧の亢進により脳幹が圧迫されて死に至ったと考えられている。
リーは、『燃えよドラゴン』の撮影約1か月後の1973年5月10日、ゴールデン・ハーベストのスタジオで音声吹き込み中に昏倒して意識不明の重体に陥り、そのまま病院に運ばれ2時間後に回復するも入院し、13日には退院している。その後、渡米し精密検査を受けるが結果は異常なしであったとされる。脳浮腫が起きた原因は背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、その晩に服用した頭痛薬の副作用といわれている[2]。
一部で既にリーの脳にあった腫瘍にこれらの薬が作用して破裂を起し脳浮腫になったという説もあるが、検死解剖では脳浮腫が確認されているのみで、脳腫瘍ならびにその破裂による脳内出血の報告はない。
死因に関して紛糾したため、香港政庁は1973年9月に死因究明裁判を開いた。同法廷書記長の藩健成によると、イギリス統治下にあった香港で出された正式な判決は「死因不明」であり[3]、脳浮腫が起きた原因は確定されなかった。
葬儀は香港とシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀に参列し、シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列した[注 7]。遺体はシアトルのダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。
死後
[編集]リーの死後、彼が待望していた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに世界各地で公開され、ヒットした。しかし、地元香港では、前作『ドラゴンへの道』の興行収入を大きく下回った[注 8]。
『燃えよドラゴン』でアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでにリーは亡くなっていた。死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。
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米国・ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム、リーのスター
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香港・星光大道、リーのスター
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星光大道のブルース・リーの銅像
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香港文化博物館の彫像
人物
[編集]ブルース・リー | |
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各種表記 | |
繁体字: | 李 小龍 |
簡体字: | 李 小龙 |
拼音: |
Lǐ Xiǎolóng(北京語) Lei5 Siu2lung4(広東語) |
和名表記: | りしょうりゅう |
発音転記: | リー・シァォロン |
英語名: | Bruce Lee |
各種表記(本名) | |
繁体字: | 李 振藩 |
簡体字: | 李 振藩 |
拼音: |
Lǐ Zhènfān(北京語) Lei5 Zan3faan4(広東語) |
和名表記: | りしんはん |
発音転記: | リー・ヂェンファン |
英語名: | Lee Jun-fan |
怪鳥音
[編集]格闘の際に発する「アチョー」という独特の叫び声は「怪鳥音」(かいちょうおん)と呼ばれる。1970年代前半の香港映画界はリーの母国語でもある香港現地語の広東語ではなく北京語で製作される映画が主流であり、リーの成人後の映画は全て北京語声優によりセリフが北京語に吹き替えられた為、リー本人の声ではない(「燃えよドラゴン」ワーナー国際英語版を除く)(リーの死後80年代に作られた広東語版は当然ながら別人による更なる吹き替え音声である)が、怪鳥音だけはリー自身の声である。ただし北米版『ドラゴンへの道』と国際版『死亡遊戯』だけは、怪鳥音の掛け声も別人の吹き替えになっている。
武道家
[編集]リーが正式に門下に入ったのは詠春拳のみだが、北派の中国拳法も数多く研究していた。『グリーン・ホーネット』のオーディション映像などでさまざまな型を演ずるのを見ることができる。なおオーディションで演舞した虎の型、龍の型などは即興で行ったもので中国武術には存在する。
アメリカ合衆国の空手家であるジョー・ルイスは1967年にリーと出会い、截拳道で導入されていたボクシンググローブとヘッドギアを身に纏ってのスパーリングや、格闘哲学を参考にした[4]。それまでアメリカ国内の空手の試合は、対戦相手の体に直接打撃せずに寸止めでポイントを争う試合が一般的だった。1970年1月17日に開催された空手大会では、スペシャルマッチとしてロサンゼルスで初めて、ボクシンググローブを着用して直接打撃する試合が行われた[5]。ルイスは対戦相手のGreg Bainesに2ラウンドKO勝ちし[5]、1974年にはアメリカンキックボクシングの団体であるPKAを設立している。
以上の歴史的事実から、ジョー・ルイスはブルース・リーこそアメリカにおけるフルコンタクト空手、つまりアメリカのキックボクシングの父であり、上記の試合でリーから学んだダブルフックのコンビネーション、ポジショニングの確立、速やかに距離を詰める事の重要性、爆発力を伴った最初の一撃といったリーが常に強調していた原則を念頭に置いた試合運びを心がけた事を、自身の教則ビデオ、What Bruce Lee Taught Meの冒頭、上記のGreg Bainesとの試合動画のナレーションにて告白している。 1971年~1988年の間、アメリカでPKAやWKAといったフルコンタクト空手の独立ランキングを管轄していたSTAR(Standardized Tournaments and Ratings)システムは、年間最優秀選手並びに貢献した関係者を各年毎に表彰していたが、Greg Baines戦におけるジョー・ルイスのKO勝利に貢献したとして、1971年のTRAINER-COACH OF THE YEARにブルース・リーを選出している[6]。
トレーニング
[編集]ブルース・リーの1963年から1971年にかけてのトレーニング記録表のサンプルで確認できるが、彼がトレーニング方法に最適なエクササイズと戦闘テクニックをプログラムで習得するにつれて、トレーニング方法が頻繁にどのように進化し続けた事がわかる。ブルース・リーは暇さえあればトレーニングをしていて、自分の可能性を最大限に引き出す方法を常に探していた。
1963年の訓練方法は主に伝統的な方法で行われていた。彼のトレーニング記録から、ブルース・リーのトレーニングは、詠春拳とシル・ラム・タオに由来するパンチとキックのエクササイズで構成されていた。1965年からは持久力とスタミナを高めるために心血管ルーチンを開始していた。彼の有酸素運動は、サイクリング、ランニング、縄跳びで構成されていた。ブルースは一日の始まりに週に3回4マイル(6km)を走っていた。彼はしばしばこれらのセッションをファートレックタイプのトレーニングとして実行し、通常のペースに戻る前に短いバーストでスピードを上げて走り込んでいた。残りの3日間、リーは一度に30分間ロープスキッピング(縄跳び)を取り入れていた。ブルース・リーは、バランス力をさらに伸ばすために、片足を上げて縄跳びをすることがあった。彼はそれが足を軽く保つのに役立つだけでなく、彼の健康にも役立つと信じていた。またこれらの日には、彼はさらにフィットネス作業のためにエアロバイクでさらに45分のサイクリングを追加していた。
時折、トレーニングによる能力の停滞を避けるために、サーキットトレーニングを行っていた。彼は8〜12種目でメニューを組み、一種目ごと30〜60秒間で休むことなく全種目行われた。
ブルース・リーは俳優として映画ビジネスの世界で活躍し、多忙をきわめるなかにあっても武道家として修行を怠ることはなかった。海外でのロケーションなどでしばらく自宅を離れるときは、専用の運動靴を持参し、ロケ先でトレーニングを行っていた。暇さえあればボールを繰り返し握る握力向上の鍛錬やパンチをできるだけ早く打ち続けるトレーニングを行っていた。
モハメド・アリのビデオをすべて所有し、トレーニングに利用していた。リー自身はサウスポースタイルを基本としていたため、オーソドックススタイルのアリのビデオを鏡に映して模倣し、その動きが本来の自分の動きになるまでトレーニングをした。
筋力トレーニングとして、アイソメトリック・トレーニング(アイソメトリクス)を積極的に取り入れていた。
『燃えよドラゴン』の監督ロバート・クローズは撮影当時を振り返り、著書である『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』でブルース・リーを「それは今までに見たことのない物凄い体付きをしていた」と表現している、また、『燃えよドラゴン』製作に携わった映画プロデューサーのポール・ヘラーは、ロバートの著書でブルース・リーの体を「彼の体はまるでマホガニーの木のようだった」とも書いている。また、撮影での武術指導をするブルース・リーをサム・ゴークと称賛していた。意味は速くパワーがあるという意味だという。
『燃えよドラゴン』のセットにいる間、ブルース・リーは戦いのシーケンスをリハーサルしながらシャツを脱いで歩き回っていた。ロバート・クルーズの妻は彼の体格を賞賛し、彼の筋肉を触っていいか聞いてみた。彼は彼女に屈曲した二頭筋を触ってみてと言った。彼女はそれに触れて、彼の筋肉が「暖かい大理石のように」感じたと周りに話していた。
その他
[編集]ダンスの才能もあり、チャチャが最も得意だった。香港のダンスコンテストで優勝したこともある。
大学で哲学を専攻していたこともあり、西洋および東洋思想に精通していたばかりか、ナポレオン・ヒルからジッドゥ・クリシュナムルティ[注 9][注 10] まで研究していた。その成果は、截拳道の思想面に活かされている。体を壊し、数ヶ月間の療養生活を余儀なくされた期間、数多くの本を読み漁りそれらを合わせると図書館ができあがるほどであった[注 11]。また画才もあり、古代中国の武術家のイラストでデッサン力や構図の構成力が発揮されている。
燃えよドラゴンでも見られるヌンチャクは代名詞になっているが、そのほかにも「タバクトヨク」というカリの武器などもある[7]。
交友
[編集]友人・後輩
[編集]- ユニコーン・チャン - リーの亡くなった14年後の1987年に交通事故にて死去した際、香港では「あの世で寂しくなった李小龍が、親友の小麒麟を連れて行った」と噂された。[要出典]
- サモ・ハン・キンポー - 初対面の際、ブルース・リーは目にも止まらぬ速さのサイドキックを一瞬で顔ぎりぎりのところで止めて見せ、あまりにも強烈な挨拶に腰が引けたという。[要出典]
- ジャッキー・チェン - 『ドラゴン怒りの鉄拳』で門下生役とスタントマン、『燃えよドラゴン』では擬斗の相手で出演。
- チャック・ノリス - 『ドラゴンへの道』の敵役で共演。
- ロマン・ポランスキー - 格闘技の師匠で自宅やスイスのグシュタードにある別荘に招くなど交流があった。
縁のある日本人
[編集]- 千葉真一 - リーは千葉の大ファンで[8]、リーから千葉に共演を申し入れたことがある[9]。
- 西本正 - 『ドラゴンへの道』『死亡遊戯』の撮影監督で、プライベートでも仲が良く、撮影終了後に「サイブン(ニックネーム、西本の広東語読み)さん、スキヤキ〜」と言って毎晩のように香港の日本食レストランに足を運んだという。『燃えよドラゴン』のクランクアップ後西本にブルース・リーから電話で「今度、『死亡遊戯』の撮影を再度行うので、空けておいてほしい」と連絡があったが叶わなかった。[要出典]
- 勝新太郎 - リーは『座頭市』のファンで、[要出典]自身が盲目の中国武術家を演じる写真も残っている[10]。
- 倉田保昭 - テレビドラマ『闘え!ドラゴン』や『Gメン'75』で演じた格闘シーンは、リーの影響を受けている。[要出典]。倉田は千葉真一と共演していたので「千葉さんはアップに相当気を使われるし、そのアップのときの演技は素晴らしいものだった。一方のブルース・リーは私に『アクション俳優とは頭から指先までパワーが満ち満ちているのが一番だ』と語った[11]」と、二人の演技の違いを評している。
- 出村文男 – ブルース・リーにヌンチャクを紹介した。リーの死後も家族と深い親交が今でもある。[要出典]
門下生
[編集]直弟子
[編集]- ダン・イノサント - イノサントアカデミー代表。
- テッド・ウォン- リーの弟子でスパーリングパートナー。リー滅後は截拳道の普及に努めた。
- ターキー木村- 日系二世の武道家。リーの弟子で「振藩國術館」の設立に関わり、シアトルの道場の責任者でもあった。
- カリーム・アブドゥル=ジャバー
- ジェームズ・コバーン - 親交が深く2人で脚本を手掛けた『サイレントフルート』という映画で共演する予定だった。インドでロケ・ハンまで行われたが、リーの死で中止となった[注 12]。
- スティーブ・マックイーン - チャック・ノリスにも師事している。
- リチャード・バステロ
- ロマン・ポランスキー
映像作品
[編集]少年期
[編集]香港で少年期、青年期に出演した作品。いくつかは香港、アメリカなどでVCD、DVDがリリースされている。日本では2003年に"BRUCE LEE ULTIMATE COLLECTION -李小龍的追悼秘蔵収集- ブルース・リー アルティメット・コレクション"のタイトルで販売された。
- 『金門女』(1941年)小李海泉名義
- 『萬紫千紅』(1948年) 新李海泉名義
- 『富貴浮雲』(1948年)李鑫/新李海泉名義
- 『夢裡西施』(1949年)小李海泉名義
- 『樊梨花』(1949年)新李海泉名義
- 『花開蝶滿枝』(1950年)李敏/小李海泉名義
- 『細路祥』(1950年)日本題名『ドラゴン スモール・ブラザー』李龍名義
- 『凌霄孤雁』(1950年)
- 『人之初』(1951年)
- 『苦海明燈』(1953年)日本題名『ドラゴン スパーク・オブ・ホープ』
- 『慈母涙』(1953年)
- 『父之過』(1953年)
- 『千萬人家』(1953年)日本題名『ドラゴン ミリアッド・ファミリー』
- 『危樓春曉』(1953年)
- 『愛(上集)』(1954年)
- 『愛(下集)』(1954年)
- 『孤星血涙』(1955年)日本題名『ドラゴン オーファン』
- 『守得雲開見月明』(1955年)
- 『孤兒行』(1955年)
- 『兒女債』(1955年)
- 『詐癲納福』(1956年)
- 『早知當初我唔嫁』(1956年)
- 『雷雨』(1957年)
- 『甜姐兒』(1957年)
- 『人海孤鴻』(1958年)
渡米後
[編集]- TVシリーズ
- 『グリーン・ホーネット』(1966年〜1967年、原題:The Green Hornet)全26話に出演。助手「カトー」を演じる。
- 毎週金曜日の午後7時半から8時に米ABC系で放映。日本では1967年にテレビ放映。死後、4話ずつ繋ぎ合わせ『ブルース・リーのグリーン・ホーネット』(1973年、原題:The Green Hornet / ビデオ邦題:ブルース・リーINグリーン・ホーネット)、及び『ブルース・リー 電光石火』(1976年、原題:Fury Of The Dragon / ビデオ邦題:ブルース・リーINグリーン・ホーネット2 電光石火)として劇場版が製作された。
- 『バットマン』(1966年〜1967年、原題:Batman)3話にカトー役でゲスト出演。
- 『鬼警部アイアンサイド』(1967年、原題:Ironside)空手道場範師レオン・スー役で出演。
- 『Blondie』(1968年)カラテ道場範師Mr. Yoto役で出演。
- 『略奪された百人の花嫁』(1968年、原題:Here Come The Brides)
- "Marriage, Chinese Style"の回に中国人花婿役で出演。
- 『復讐の鬼探偵ロングストリート』(1970年〜1971年、原題:Longstreet)
- "The Way of The Intercepting Fist"、"Spell Legacy Like Death"、"Wednesday's Child"、"I See, Said The Blind Man"の4エピソードに出演。
- 映画
香港帰国後
[編集]- 映画
- 『ドラゴン危機一発』(1971年、原題:唐山大兄 THE BIG BOSS)- 鄭潮安(チェン・チャオワン)※1971年10月31日〜11月22日 319万7416香港ドル、香港では『サウンド・オブ・ミュージック』や『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』を破る最高記録。日本では1974年の洋画部門の配給収入第4位、6億円
- 『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年、原題:精武門 FIST OF FURY)- 陳真(チェン・ジェン)※日本では1974年洋画部門の配給収入第4位(『ドラゴン危機一発』と同額)、6億円
- 『ドラゴンへの道』(1972年、原題:猛龍過江 THE WAY OF THE DRAGON)- 唐龍(タン・ロン)※日本では1975年の洋画部門の配給収入第6位、7億7200万円。
- 『燃えよドラゴン』(1973年、原題:ENTER THE DRAGON 龍争虎闘)- 李振強(リー)※日本では1974年洋画部門の配給収入第2位、16億4200万円
- 『死亡遊戯』(1978年、原題:死亡遊戯 GAME OF DEATH)- 呂比利(ビリー・ロー)※この映画を「リー主演映画」とすることには一部で異論がある。日本では1978年の洋画部門の配給収入第5位、14億5000万円。
短編フィルム
[編集]リーの死後、未公開映像として公開されたもの。
- 「チャーリー・チャンの息子」スクリーンテスト(1966年)
- 「グリーン・ホーネット」スクリーンテストフィルム1&2(1966年)
- 「グリーン・ホーネット」衣装テストフィルム(1966年)
- 「U.S. Gung Fu Television Demo」(1966年)
- テレビ番組「Milton Berle Show」に出演した際の武術デモンストレーション。
- 「Bruce Lee : The Lost Interview」(1971年)
- カナダの作家ピエール・バートンが香港TVBスタジオでインタビューしたフィルム。現存する唯一のインタビュー映像。
- 「アーナ・カプリフィルム」
- 『燃えよドラゴン』で競演した女優のアーナ・カプリが個人撮影した8ミリフィルム。イベントで公開された。
関連映画・ドラマ
[編集]リーが間接的に関係する映画、未発表フィルムを使った映画、ドキュメンタリー映画など。
- アクション指導
- 『サイレンサー/破壊部隊』(1968年、ディーン・マーティン主演)
- 『春の雨の中を』(1969年、アンソニー・クイン主演)
- 原案
- 『燃えよ!カンフー』(1973年、デビッド・キャラダイン主演)
- 『サイレントフルート』(1977年、デビッド・キャラダイン主演)
- 未発表フィルム使用
- 『死亡の塔』(1980年、タン・ロン主演)
- 『Bruce Lee in G.O.D 死亡的遊戯』(2000年、デヴィッド・リーがブルース役)
- ドキュメンタリー映画&TVドキュメンタリー
- 『ブルース・リーの生と死』(1973年)
- 『ブルース・リー 恐怖の鉄拳 死の香り』(1980年)
- 『ブルース・リー神話』(1984年)
- 『ブルース・リー/マーシャルアーツ・マスター』(別邦題:ブルース・リー ザ・レジェンド/新マーシャルアーツ・マスター、1990年)
- 『燃えよブルース・リー/不滅のドラゴン』(1992年)
- 『ブルース・リー伝説』(別邦題:ブルース・リー 最後の伝説、1993年)
- 『実録ブルース・リー/ドラゴンと呼ばれた男』(1993年)
- 『ブルース・リーよ永遠に』(1999年)
- 『受け継がれる魂 ブルース・リーの軌跡』(2001年)
- 『ブルース・リー チェンジ・ザ・ワールド』(2009年)
- 『アイ アム ブルース・リー』(2012年)
※その他、リーの映像を一部だけ使い「ブルース・リー出演」と銘打った映画は、『麒麟掌』(1973年、小麒麟(ユニコーン・チャン)主演。武術指導をしている姿を盗み撮りして無断使用)など数多い。
著作
[編集]- Chinese Gung-Fu: The Philosophical Art of Self Defense (ブルース・リーの処女作) – 1963
- 松宮康生訳『基本中国拳法』フォレスト出版、1998年
- Tao of Jeet Kune Do (死後出版) – 1973
- 風間 健、灰田匡江訳『秘伝截拳道への道』コンコルド東通 ベストブック社、1976年
- 奥田祐士訳『截拳道(ジークンドー)への道』キネマ旬報社、1997年
- Bruce Lee's Fighting Method (死後出版) – 1978
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈Vol.1〉護身術編』フォレスト出版、1997年
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈Vol.2〉基本トレーニング編』フォレスト出版 、1997年
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈vol.3〉実戦編』フォレスト出版、1997年
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈vol.4〉上級テクニック編』フォレスト出版、1997年
伝記映画・ドラマ
[編集]- 伝記映画
- 『ブルース・リー物語』(1976年、ホー・チョンドー主演)
- 『ドラゴン/ブルース・リー物語』(1993年、ジェイソン・スコット・リー主演)
- 『李小龍 マイブラザー』(2010年、アーリフ・リー主演)
- 『バース・オブ・ザ・ドラゴン』(2016年、フィリップ・ン主演)
- 伝記テレビドラマ
- 全50話の伝記ドラマ。中国にて平均視聴率・最高視聴率の新記録を打ち立てた。日本ではBS日テレで放送。
パロディ・オマージュ映画、リーに影響された映画など
[編集]詳細はブルース・リーが主演・出演している映画・ドラマのそれぞれの項を参照。
- 『ドラゴン水滸伝』 - 1975年。『封神演義』を題材としたアニメ映画。リーを思わせる風貌の楊戩が登場する。
- 『ブルース・リーを探せ!』 - 1976年。リーの死の謎を、ブルース・リィ演じる親友の武術家が探るというストーリー。
- 『ケンタッキー・フライド・ムービー』 - 1977年。オムニバス・ギャグ映画で、そのスケッチの一つに、『燃えよドラゴン』のパロディ『燃えよ鉄拳(A Fistful of Yen)』がある。
- 『燃えよデブゴン』 - 1978年。サモ・ハン・キンポーが、リーへのオマージュを込めて制作した映画。
- 『秘録ブルース・リー物語』 - 1978年。タイトル以外はほぼ無関係な映画。
- 『複製(クローン)人間ブルース・リー/怒りのスリー・ドラゴン』 - 1982年。英国諜報部が死んだリーの細胞から3人のクローン人間を作り出したという設定の作品。
- 『ラスト・ドラゴン』 - 1985年。リーに憧れる黒人青年の物語。
- 『シンデレラ・ボーイ』 - 1985年。亡くなったリーの霊が主人公を鍛える青春アクション映画。
- 『コイサンマン、キョンシーアフリカへ行く』 - 1991年。ニカウさんがブルース・リーの霊を憑依させて戦う。
- 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』 - 2019年。『サイレンサー/破壊部隊』でシャロン・テートのアクション指導をしていた実話から、リーが撮影現場で副主人公・クリフに喧嘩を仕掛け、投げ飛ばされる架空のエピソードが作られた。
ソックリさん
[編集]リーの死後、香港や台湾では「ドラゴン映画」「リー映画」が数多く製作され、多くのソックリさんが登場した。いずれもヒット作品とはならなかったが、一部には「ソックリさん映画」のコレクターもいる。
- ブルース・リィ(ホー・チョンドー) - 台湾の武道家・俳優。日本のTVドラマ『Gメン'75』にも出演した。
- ドラゴン・リー - 韓国出身の俳優。
- ブルース・リ - 香港の俳優。
- タン・ロン - 韓国出身の俳優。『死亡の塔』に主演。
- 石天龍(シー・テンロン、ドラゴン・セキ)[12][13] - 中国の俳優。『フィスト・オブ・フューリー 復活!ドラゴン怒りの鉄拳』『復活 ドラゴン危機一発』『復活 死亡遊戯』に主演。
- 陳国坤(チャン・クォックァン) - 香港の俳優。周星馳(チャウ・シンチー)によって見出され、『少林サッカー』『カンフーハッスル』に出演。連続テレビドラマ『ブルース・リー伝説』や映画『イップ・マン 継承』では、リーを演じる。
漫画・ゲーム・アニメへの影響
[編集]漫画
[編集]- ブロース・ドラゴン - 石ノ森章太郎原作の『番長惑星』のキャラクター。
- 雷音竜 - 風忍原作の『地上最強の男 竜』の主人公。なお本作ではブルース・リー本人が宮本武蔵とともに復活し竜と闘う展開となるが、至極あっさりと倒されてしまう。
- ドラゴン撃ちの竜 - 『プロゴルファー猿』の敵キャラクター。
- 『北斗の拳』 - 主人公ケンシロウの描写にはブルース・リーの影響が見られる。
- ブルース・ソー - ぜんきよし作『あほ拳ジャッキー』に登場するリーのパロディキャラクター。
- 怒裸権榎道 - 『ハイスクール!奇面組』のキャラクター。初登場時のイメージBGMは『燃えよドラゴン』のテーマ。
- 烈海王 - 板垣恵介原作の『グラップラー刃牙』に登場するキャラクター。
- 春巻龍 - 『浦安鉄筋家族』に登場するリーのパロディキャラクター、その他にもブルース・リーのパロディキャラクターが出てくる。
- 『NARUTO -ナルト-』 - マイト・ガイとロック・リーの描写にはリーの影響が見られる。両者とも体術のスペシャリストとして描かれている。
- 李白竜 - 『シャーマンキング』に登場するこの霊の元ネタとなった。ここでは死因は銃殺。
- 『紅の挑戦者』- 「ブルース・リーの弟分」とされるムエタイ王者のチャング・レッドムーンというキャラクターが登場し、主人公たちが参考にブルース・リーの映画を観に行くシーンが描かれている。
- 只野仁 - 『特命係長 只野仁』の主人公。
アニメ
[編集]- 『破裏拳ポリマー』 - 主人公・鎧武士の外見や格闘アクションにリーの影響が見られる。
- スパイク・スピーゲル - 『カウボーイビバップ』の主人公。截拳道の達人で、ブルース・リーを心の師と仰ぐ。
- ギョーザ・リー - 『おでんくん』のアニメオリジナルキャラクター。
ゲーム
[編集]- フェイロン - 格闘ゲーム『ストリートファイターIIシリーズ』。
- Blues(ブルース) - 格闘ゲーム『イー・アル・カンフー』。
- ジャッキー・ブライアント - 格闘ゲーム『バーチャファイターシリーズ』。
- マーシャル・ロウ - 格闘ゲーム『鉄拳』。
- フォレスト・ロウ - 格闘ゲーム『鉄拳』。
- ドラゴン - 格闘ゲーム『ワールドヒーローズ』。
- ジャン・リー - 格闘ゲーム『デッドオアアライブ』。
- 王 - アクションゲーム『THE 功夫』。
- ホワン・ヤンロン - 『スーパーロボット大戦シリーズに登場するバンプレストオリジナルの架空のロボットアニメ『魔装機神シリーズ』のキャラクター。
- ダブルドラゴンシリーズ - テクノスジャパン制作の格闘ゲーム。
- 『ペルソナ4』 - 登場人物の里中千枝が戦闘終了後にブルース・リーのセリフを喋ることがある。
伝記
[編集]- マシュー・ポリー『ブルース・リー伝』棚橋志行訳、亜紀書房、2019年
- 四方田犬彦『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年/ちくま文庫、2019年7月
- 『現代思想 総特集ブルース・リー 没後40年、蘇るドラゴン』青土社、2013年10月臨時増刊
- 『ブルース・リー 生きつづける魂』河出書房新社<文藝別冊ムック>、2019年8月
- 『ブルース・リー 命を焼きつけた100分』河出書房新社、2016年
その他・特記事項
[編集]- 日本での劇場公開時、『ドラゴン危機一発』、『ドラゴン怒りの鉄拳』、『ドラゴンへの道』の3作には、日本側の配給元がマイク・レメディオスが歌う日本オリジナルの主題歌やBGMを挿入していた。現在、発売されているDVDには、当時の主題歌やBGMは使われていない。長年レメディオスは「謎の歌手」だったが、日本のファン[14] がポルトガル系香港人だと突き止めた。その後、ファンが主導して主題歌の再収録[15] や、日本にノラ・ミャオとともに招いてトークイベント[16] などが行われ、2007年10月に新たに収録した「SONG OF DRAGON Mike Remedios The Final」(Chife Delight Music)というCDが発売された
- 遺品である免許証、サングラス、契約書が『開運!なんでも鑑定団』(2004年6月22日放送)に登場。高額な鑑定結果となった。
- 広州市に本店を有し、中国全土に500以上の店舗を構える大手レストランチェーン『真功夫』(1990年創業)は、2004年以来、店内外に格闘家のロゴ(その着衣が『死亡遊戯』におけるブルース・リーの衣装を想起させるものもある)を用いている。真功夫は、これをブルース・リーとは言っておらず、遺族などにも許諾を取っていなかったが、2019年12月娘のシャノン・リーは、肖像権を侵害しているものとし、2.1億元の損害賠償を提訴、現在係争中である[17]。
- ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにブルース・リー像が立てられている。
- ブルース・リーが受賞した賞と栄誉のリスト
関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 広東語は香港商務印書館1989年版「普通話粤音商務新詞典」、李珍華・周長楫編「漢字古今音表」修訂本(北京中華書局1999年)、華南師範大学中文系編「広州音字典」(香港三聯書店1985年版)などにもとづく。
- ^ 香港経済界の大立者何東、何福の異父弟、何福の孫にマカオのカジノ王スタンレー・ホーがいる。
- ^ 映画『ドラゴン怒りの鉄拳』は精武体育会についての伝説(史実ではない)がテーマである。
- ^ このマスクは、後に映画『キル・ビル』で「カトーマスク」と呼ばれる。
- ^ カトー役のイメージのため、リーを日本人だと誤解しているアメリカ人も多かった。
- ^ 主人公の混血児ケインを演じたのはデビッド・キャラダイン。
- ^ この葬儀の様子は『死亡遊戯』の中で実際に使われている。
- ^ この現象について、映画関係者や批評家は、「香港や中国の観客は、リーのような小柄で細身の田舎者が、日本人や屈強な白人を痛快に叩きのめすような内容の作風を望んでいたから」などと分析している(『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』ロバート・クローズ著(白夜書房))。
- ^ "KRISHNAMURTI 100 years" Evelyne Blau, Stewart, Tabori and Changにおいてジークンドー思想との類似性が指摘されている。
- ^ 『截拳道への道』に「断片ではなく全体を見ること」という記述があるが、ここでクリシュナムルティの名がメモされている。
- ^ 主に哲学や各種マーシャルアーツに関する本を多く読んでいたとされる。
- ^ その後、1977年にデビッド・キャラダイン主演で映画化。
出典
[編集]- ^ “ブルース・リー”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年10月28日閲覧。
- ^ ブルース・リーの死から43年 謎の死を解明(下)- EPOCH TIMES - ウェイバックマシン(2021年5月15日アーカイブ分)
- ^ 1998年11月6日テレビ放送「驚きももの木20世紀」の『アジアの肉体 BODY/SOUL ブルース・リー伝説』
- ^ Black Belt 1992年 5月号 24ページ Jeet Kune Do's Kickboxing Phase by Jerry Beasley, Ed.D.
- ^ a b Black Belt 1992年 5月号 27ページ The Birth of Competition JKD by Jerry Beasley, Ed.D.
- ^ John Corcoran著 THE MARTIAL ARTS SOURCEBOOK 40ページ HarperPerennial A Division of HarperCollins Publishers 1994年
- ^ Tabak-Toyokウィキペディア英語版
- ^ 福永邦昭 (2016年3月18日). “香港で出会った大スター 「千葉空手」生んだブルース・リーの死” (HTML). 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】. ZAKZAK. p. 1. 2016年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月5日閲覧。
- ^ 『SPORTS CITY』第1巻第2号、鎌倉書房、1981年8月、32頁。
- ^ 映画「ブルース・リーの生と死」1973年 ゴールデン・ハーベスト製作
- ^ 天本伸一郎「倉田保昭“目標としていつも背中を追い求めた憧れの先輩”」『キネマ旬報 11月上旬特別号』第2692巻第1878号、キネマ旬報社、2021年11月1日、15頁。
- ^ allcinema シー・テンロン
- ^ 百度百科 石天龙
- ^ 遠藤智博(現:スタジオ・ポッド代表)
- ^ 『甦れマイレメ!!』香港レコーディング・レポート
- ^ Mike Remedios Live in Japan イベントレポート
- ^ 高橋史弥 (2019年12月27日). “ブルース・リーそっくりの看板掲げた飲食店、15年目にしてついに訴えられる”. ハフポスト. 2024年9月8日閲覧。
参考文献
[編集]- 『ブルース・リー 永遠のドラゴン』日野康一著(1974年12月、芳賀書店)ISBN 4826100264
- 『闘魂ブルース・リー』日野康一著(1982年10月、芳賀書店)ISBN 4826105029
- 『ブルース・リー 不滅のドラゴン』スクリーン著(1985年12月、近代映画社)ISBN 4764812959
- 『ブルース・リー・ストーリー』リンダ・リー著(1993年10月、キネマ旬報社)ISBN 487376064X
- 『ブルース・リー・メモリアル』リンダ・リー他著(1994年7月、キネマ旬報社)ISBN 4873760925
- 『映画秘宝 Vol.3 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!』(1996年9月21日、洋泉社)ISBN 4-89691-231-4
- 『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』ロバート・クローズ著(1996年4月25日、白夜書房)ISBN 4-89367-497-8
- 『截拳道への道』ブルース・リー著(1997年5月15日、キネマ旬報社)
- 『ブルース・リー・リターンズ 超人伝説』(1997年8月8日、キネマ旬報臨時増刊号)
- 『伝説のブルース・リー』BLACK BELT誌編(1998年4月、フォレスト出版)ISBN 4894510502
- 『ブルース・リー・クロニクル』松宮康生著(1998年8月、フォレスト出版)ISBN 4894510561
- 『ブルース・リー ザ・ファイター』M・ウエハラ著(1998年11月9日、フォレスト出版)ISBN 4894510634
- 『李小龍大全 / The Bruce Lee Library』(1998年12月18日、ソニーマガジンズ)ISBN 4789713342
- vol.1 ドラゴンかく語りき[インタヴュー 1958〜1973] ジョン・リトル編
- vol.2 グンフーへの道[中国武術の研究] ブルース・リー著 / ジョン・リトル編
- vol.3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] ブルース・リー著 / ジョン・リトル編
- 『BRUCE LEE THE GREATEST』松宮康生著(1999年8月30日、フォレスト出版)ISBN 4894510847
- 『ブルース・リー最後の真実』松宮康生著(2008年9月2日、ゴマブックス)ISBN 978-4-7771-1097-1