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ニュートン・タットリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニュートン・タットリー
プロフィール
リングネーム ジート・モンゴル
ザ・モンゴル
ブラック・ジャック・ダニエルズ(ブラックジャック・ダニエル)
トニー・ニューベリー
ミスター・ロウバスト
スカンクマン
本名 ニュートン・タットリー
身長 180cm - 185cm
体重 115kg - 125kg
誕生日 1931年7月12日
死亡日 (2013-07-19) 2013年7月19日(82歳没)[1]
出身地 カナダの旗 カナダ
ノバスコシア州の旗 ノバスコシア州
スプリングヒル
トレーナー デイブ・マッキグニー
デビュー 1954年
引退 1982年
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ニュートン・タットリーNewton Tattrie1931年7月12日 - 2013年7月19日)は、カナダノバスコシア州出身のプロレスラー

ジート・モンゴルGeeto Mongol)のリングネームで知られ[2]ベポ・モンゴルおよびボロ・モンゴルを従えたモンゴリアンギミック悪役タッグチームザ・モンゴルズThe Mongols)のリーダー格として活躍した[3]

来歴

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12歳の頃に家を飛び出し、第二次世界大戦中はトロントのストリート・キッズになっていたという[4]1954年ボクシングを習おうとして入ったジムでプロレスラーの "ワイルドマン" デイブ・マッキグニーと出会い、彼の指導のもとレスリングを習得するが、体が小柄だったためプロレスを定職とすることはできず、以降10年もの間、油田で働きながらリングに上がっていた[4]

1963年スチュ・ハートの主宰するカルガリースタンピード・レスリングに参戦、飛躍のきっかけを掴む[4]。トロントのジム以来の旧友ワルドー・フォン・エリックの仲介でWWWFにも出場、トニー・ニューベリーTony Newberry)のリングネームでジョバーを務めた[5]アメリカ南部NWA圏ではブラック・ジャック・ダニエルズBlack Jack Daniels)を名乗り、1967年2月14日にスタン・コワルスキーと組んでフロリダ版のNWA南部タッグ王座を獲得[6]、同月には「ブラックジャック・ダニエル」の表記で日本プロレスに初来日している[7][8]

1968年、カルガリーに戻りミスター・ロウバストMr. Robust)の名で活動後、クロアチア移民のヨシップ・ペルゾビッチをパートナーにザ・モンゴルズを結成[4]。自身はジート・モンゴルGeeto Mongol)、ペルゾビッチにはベポ・モンゴルと名乗らせ、辮髪に毛皮のコスチュームをまとったモンゴリアンギミックの無法コンビとして、カナダやアメリカ北東部を中心に活動を開始する[3]

1970年よりWWWFに再登場して、6月15日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンビクター・リベラ&トニー・マリノを破りWWWFインターナショナル・タッグ王座を奪取[9]。翌1971年6月18日にピッツバーグにてブルーノ・サンマルチノ&ドミニク・デヌーチに敗れて一度はタイトルを失うも、2週間後の7月2日に奪回、11月12日にターザン・タイラー&ルーク・グラハムに明け渡すまで、ベポとのコンビで王座を保持した[9]

同時期、ピッツバーグの興行権をサンマルチノから購入してプロモート業にも着手[10]NWFのペドロ・マルティネスに買収される1972年まで、WWWFにおける同地区の興行を担当した[3]WWWFインターナショナル・タッグ王座も1971年12月18日にジョニー・デ・デファジオと組んでタイラー&グラハムから奪還したが、NWFのピッツバーグ買収に伴い、1972年に同王座は封印されている[9]

1972年7月にはベポを帯同して日本プロレスに参戦[11]1973年にベポがモンゴルズを脱退すると、ピッツバーグでスカウトしたビル・イーディーにボロ・モンゴルを名乗らせて後任とし[3]、NWFにてモンゴルズを再編[12]1974年4月には新生モンゴルズとして新日本プロレスの『第1回ワールドリーグ戦』に来日[7]。予選リーグで上位に食い込み決勝リーグに進出し、アントニオ猪木坂口征二キラー・カール・クラップジ・インベーダースタン・スタージャックらと対戦したが、戦績は全敗に終わった[13]

以降、ペドロ・マルティネスも参画していたエディ・アインホーン主宰のIWAやジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区などで活動[12]1976年7月には新日本プロレスに再来日したが[14]、同年秋にボロとのコンビも解消してモンゴルズを解散させた。

その後はシングルプレイヤーのザ・モンゴルThe Mongol)として、トロント、セントルイスジョージアなど各地への転戦を経て、1982年に現役を引退[4]1985年よりバージニア・ビーチに居住し、レスリング・スクールを5年間運営していた[4]。同スクール出身のヘンリー・ロビンソンとジャック・ワーイングがUNWに来日している。

2013年7月19日、82歳の誕生日を迎えた1週間後、居住地のバージニア・ビーチにて死去[1]

獲得タイトル

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チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWA南部タッグ王座(フロリダ版):1回(w / スタン・コワルスキー)[6]
ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション
ナショナル・レスリング・フェデレーション
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ベポ・モンゴル)[15]
インターナショナル・レスリング・アソシエーション
イースタン・スポーツ・アソシエーション

得意技

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指導選手

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脚注

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  1. ^ a b Geeto Mongol dead at 82”. Slam Wrestling (2013年7月26日). 2016年5月22日閲覧。
  2. ^ リングネームの綴りは "Geto" 、読みは「ギト」または「ギート」とされる場合もある。
  3. ^ a b c d Newt Tattrie’s gimmicks, from Mongol success to smelly Skunkman”. Slam Wrestling (1999年7月12日). 2011年7月12日閲覧。
  4. ^ a b c d e f ジート・モンゴル”. ALAS, 廿軒家プロレス (2011年3月9日). 2022年2月13日閲覧。
  5. ^ WWE Yearly Results 1965”. The History of WWE. 2011年7月12日閲覧。
  6. ^ a b NWA Southern Tag Team Title [Florida]”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月12日閲覧。
  7. ^ a b 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P51(2002年、日本スポーツ出版社
  8. ^ JWA 1967 MSG Series”. Puroresu.com. 2016年5月22日閲覧。
  9. ^ a b c d WWWF International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月12日閲覧。
  10. ^ Geeto Mongol”. Online World of Wrestling. 2011年7月12日閲覧。
  11. ^ JWA 1972 Summer Big Series I”. Puroresu.com. 2016年5月22日閲覧。
  12. ^ a b Masked Superstar Match Results”. Mid-Atlantic Gateway. 2011年7月12日閲覧。
  13. ^ NJPW 1974 The 1st World League”. Puroresu.com. 2016年5月22日閲覧。
  14. ^ NJPW 1976 Asia League Championship Series”. Puroresu.com. 2016年5月22日閲覧。
  15. ^ NWF World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月12日閲覧。
  16. ^ IWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月12日閲覧。
  17. ^ International Tag Team Title [Maritime Provinces]”. Wrestling-Titles.com. 2015年12月28日閲覧。

外部リンク

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