ブディ・アリ・スティアディ
ブディ・アリ・スティアディ Budi Arie Setiadi | |
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2024年のブディ | |
生年月日 | 1969年4月20日(55歳) |
出生地 | インドネシア、ジャカルタ |
出身校 | インドネシア大学 |
現職 | 政治家、実業家、ジャーナリスト |
所属政党 | 無所属 |
配偶者 | ザラ・ムルザンディナ |
子女 | 2人 |
親族 |
ジョコ・アスモロ(父) プジ・アストゥティ(母) |
在任期間 | 2024年10月21日 - |
大統領 | プラボウォ・スビアント |
在任期間 | 2023年7月17日 - 2024年10月20日 |
大統領 | ジョコ・ウィドド |
在任期間 | 2019年10月25日 - 2023年7月17日 |
大統領 | ジョコ・ウィドド |
ブディ・アリ・スティアディ(インドネシア語: Budi Arie Setiadi, 1969年4月20日 - )は、インドネシアの政治家、実業家、ジャーナリスト。同国第12代協同組合大臣。第7代通信情報大臣、初代村落・途上地域開発・移住副大臣を務めた。
経歴
[編集]1969年4月20日にインドネシア、ジャカルタにて、ジョコ・アスモロとプジ・アストゥティの息子として誕生する。北ジャカルタ市の小学校で正式な教育を受け始め、同校の中学校を卒業。その後、1988年に中央ジャカルタ市にある高校で教育を受け、1990年に卒業した。高校卒業後、ブディはインドネシア大学でコミュニケーション学を学び始めた[1]。
ブディは学生記者、スポーツコミュニティ、学生政治団体など様々な学生組織に参加した。大学時代にはムニというニックネームで呼ばれた。1994年にはインドネシア大学社会政治科学部の学生代表委員会委員長を務め、1994年から1995年までインドネシア大学学生上院の議長も務めた。ブディはインドネシア大学学生研究フォーラムの設立に関わり、インドネシア大学学生擁護グループに積極的に参加した。ジャーナリズムの分野では、1993年から1994年までインドネシア大学の学生雑誌「Suara Mahasiswa」の編集長を務めた。ブディはまた、当時のインドネシア大学学長の方針に反対する抗議活動の組織化にも関わっていた。
ブディの頻繁な抗議活動は学部長の目に留まり、いつ卒業するのかとたびたび尋ねられた。ブディは1994年にはすでに授業を終えていたが、論文を完成させるのに数年を要した。最終的にブディは卒業し、1996年にコミュニケーション学の学士号を取得した。ブディは、インドネシア大学経済経営学部の大学院で社会開発マネジメントの研究を続けた。2006年に大学院を修了。2022年5月29日、ブディはインドネシア大学社会政治学部同窓会会長に選出された。ブディは1994年に、メディア・インドネシア週刊誌でジャーナリストとして働き始めた。
その後、1996年に数人の同僚とともにビジネス週刊誌『コンタン』を創刊。活動家としての経歴から、ブディの新聞にはしばしば実業家に対する厳しい批判が含まれていた。ブディは、その厳しい報道でコンパス・グラメディア・グループの創始者ヤコブ・ウタマから警告を受けた。2001年まで同紙のジャーナリストとして勤務し、その後はマンディリ・テレコムニカシ・ウタマ社に移り、2001年から2009年まで社長取締役を務めた。
2008年から2009年まで、バンサ・タブロイド紙のゼネラル・マネージャーも務め、2010年から、メディア以外の企業も率いた。ブディは、1998年のスハルト政権崩壊時に起こった抗議活動に参加した。同年にインドネシア大学同窓会会長に選出され、2001年まで務めた。その後、ジャカルタ学者運動とインドネシア専門家協会を設立。2000年代初頭には、闘争民主党に入党。すぐに2005年から2010年まで党の研究開発部門の責任者に任命された。2009年、党からジャカルタ第3選挙区選出の人民代表委員に指名されたが落選。その後、ジャカルタの闘争民主党副議長に就任。
ブディは2013年8月に、親ジョコ・ウィドドの有志で構成される組織、プロジョを設立した。同組織はジョコ・ウィドドの2014年大統領選挙キャンペーンに大きく貢献し、2014年インドネシア大統領選挙でジョコ・ウィドドを勝利に導いた重要な組織とみなされた。プロジョは2019年インドネシア総選挙のために再活性化され、同選挙でジョコ・ウィドドの勝利を支えた[2]。
2019年10月20日のジョコ・ウィドドの就任式から3日後、ブディは内閣の顔ぶれを発表した。ジョコ・ウィドドの新内閣には、選挙で対立したプラボウォ・スビアントが大臣として含まれており、プロジョのメンバーから抗議の声が上がった。プロジョはまた、ウィシュヌタマが大統領選挙でジョコ・ウィドドを支持していないにもかかわらず大臣に任命されたことを批判した。プロジョのハンドコ事務局長は、新内閣の発表と同時に、「深い失望」と「不寛容に反対し、政治に関与する意思を持つ」という公約に違反したとして、プロジョを解散した[3]。
プロジョはその後、Twitterで#budiarieformenteriというハッシュタグを立ち上げた。ハッシュタグを立ち上げたプロジョの試みは、親ジョコ・ウィドドのブログサイト、Sewordの創設者であるアリフラフマン・S・アシャリによって批判された。このハッシュタグに対し、アシャリは自身のウェブサイトを自粛し、#AlifforWapresというテキストに差し替えた。ジョコ・ウィドドはその後、副大臣の顔ぶれを発表し、ブディを初代村落・途上地域開発・移住副大臣に任命した。
発表後、ブディはプロジョの解散決定を取り消した。アシャリは、ブディの解散取り消し決定に厳しく反応した。2023年5月、ジョニー・G・プレート通信情報相が汚職事件に関与したとして逮捕された。プレートが関与した汚職事件の中心は、インドネシアの遠隔地における基地局配備の設置費用の値上げをめぐるものであった。ジョコ・ウィドドはその後、モハマッド・マフッド調整相を大臣代行に任命した。
逮捕から1ヵ月も経たないうちに、ジョコ・ウィドドは2024年の総選挙に向けた内閣改造で、ブディを新通信情報大臣に任命した。この内閣改造は、2月の総選挙を前に大統領が自身の支持者を政権に据えるための動きと広く見られていた。大臣就任後、ブディはソーシャルメディアのコンテンツを監督する機関を設立する計画を発表した[4]。
2024年10月21日、プラボウォ・スビアント大統領によって、テテン・マスドゥキが務めていた協同組合・中小企業大臣が分離し、ブディは協同組合大臣に任命された。通信情報大臣には、新たに厶ティア・ハフィドが就任した。
脚注
[編集]- ^ Erianto, Dwi (8 July 2022). “Wakil Menteri Desa, Pembangunan Daerah Tertinggal dan Transmigrasi Budi Arie Setiadi”. Kompas. オリジナルの27 March 2023時点におけるアーカイブ。 17 July 2023閲覧。
- ^ Media, Kompas Cyber (2018年8月4日). “Siapapun Cawapresnya, Relawan Tetap Solid Dukung Jokowi” (インドネシア語). KOMPAS.com. 2022年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月17日閲覧。
- ^ “Kabinet Jokowi-Maruf Diumumkan, Relawan Projo Bubar” (英語). Rmol.id. 2023年7月17日閲覧。
- ^ “Menkominfo Budi Arie Mau Bikin Tim Pengawas Medsos” (インドネシア語). kumparan. 2023年7月17日閲覧。