フレドリク・アクセル・フォン・フェルセン
フレドリク・アクセル・フォン・フェルセン(スウェーデン語: Fredrik Axel von Fersen、1719年4月5日 - 1794年4月24日)は、スウェーデンの政治家、軍人。
生涯
[編集]ハンス・ラインホルト・フォン・フェルセン中将の子として[1]、ストックホルムで生まれた[2]。1740年にスウェーデン近衛連隊に入り、1743年から1748年までフランスの王立スウェーデン連隊に従軍して准将に昇進した[1]。七年戦争ではウーゼドム島とヴォリン島をめぐる1759年の戦役で活躍、プロイセン軍に大きな損害を与えた[1]。その後、1770年に元帥に叙された[2]。
1755年から1756年までのリクスダーグで議長に選出され、1772年のグスタフ3世のクーデターまでハッタナ党を率いた[1]。1756年クーデターでは国王アドルフ・フレドリクの権力を増大させる陰謀を潰したが、七年戦争の敗北により情勢は国王に有利になり、フェルセンはハッタナ党の権力維持に苦心した[1]。1766年にメッソナ党が権力を奪回すると、フェルセンは国王側につき、1768年にアドルフ・フレドリクがメッソナ党の要求に耐えかねて退位した(十二月危機)際も近衛連隊の出動を拒否して国王を援護した[1]。続く1769年のリクスダーグで再び議長に選出されたが、選挙のときに王太子グスタフに公約した憲法改正を実行せず、後の絶対王政復活に図らずも貢献することとなった[1]。
グスタフが1772年にスウェーデン王に即位する(グスタフ3世)と、メッソナ党とハッタナ党の和解を試みた[1]。フェルセンはその成功を悲観視したが、メッソナ党との交渉に同意した[1]。そして、1772年8月のクーデターでは関与せず憲法の廃止も阻止しなかった[1]。グスタフ3世はクーデターが成功した後、すぐさまにフェルセンを呼びつけたが、国王との関係は良好ではなく、1778年のリクスダーグで早くも小さな争いが生じた[1]。1786年にスウェーデン・アカデミーの終身会員となった。やがて、フェルセンは1786年のリクスダーグでグスタフ3世の財政政策に公的にも反対したが失敗に終わり、第一次ロシア・スウェーデン戦争の最中である1789年のリクスダーグで国王との対決を主張すると、大衆の支持をも失った[1]。フェルセンがなかなか決断できないでいると、1789年2月17日に同志20人とともに逮捕され、野党が崩壊した[1]。
その後、フェルセンはすぐに釈放されたが、2度と政治に関わることはなくなり、1794年にストックホルムで死去した[1]。
評価
[編集]ブリタニカ百科事典第11版によると、「フェルセンは才能があり、常に貴族たるべき振る舞いをしたが、偉大な政治家になるには党派的性格が強すぎた」という[1]。また、フェルセンの著作である"Historiska Skrifter"はスウェーデンの歴史について主に自伝という形で書かれ、「文学としては優れているものの歴史的文書としては信頼できない」という[2][1]。