フレデリック・セシジャー (第2代チェルムスフォード男爵)
第2代チェルムスフォード男爵 フレデリック・セシジャー Frederic Thesiger 2nd Baron Chelmsford | |
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1870年頃のチェルムスフォード男爵 | |
生誕 | 1827年5月31日 |
死没 |
1905年4月9日(77歳没) イギリス ロンドン |
所属組織 | イギリス陸軍 |
軍歴 | 1844年 - 1905年 |
最終階級 | 大将(General) |
第2代チェルムスフォード男爵フレデリック・オーガスタス・セシジャー(英: Frederic Augustus Thesiger, 2nd Baron Chelmsford, GCB, GCVO、1827年5月31日 - 1905年4月9日)は、イギリスの陸軍軍人、貴族。
大英帝国最盛期の軍人として世界各地の戦争に従軍。とりわけ南アフリカでズールー戦争の指揮を執り、ズールー王国を征服したことで知られる。最終階級は大将(General)。
経歴
[編集]1827年5月31日、後に初代チェルムスフォード男爵に叙されるフレデリック・セシジャーとその妻アン・マリア・ティンリングの間の長男として生まれた[1][2]。
イートン校を卒業[2]。1844年に陸軍に入隊。1850年にはグレナディアガーズの大尉(Captain)となる[2][1]。1854年のクリミア戦争に従軍し[2]、1855年にはセヴァストポリ包囲戦に参戦した[1]。1858年に第95歩兵連隊の中佐(Lieutenant-Colonel)に昇進した[2][1]。
インド大反乱の鎮圧戦に参加し、1861年にはインド高級副官代理に就任。1863年には名誉進級大佐(Brevet Colonel)になる[2][1]。1867年から1868年のエチオピア侵攻にも従軍した[2]。1868年から1877年にかけてはヴィクトリア女王の副官(Aide-de-Camp)を務めた[2]。1869年から1874年にかけてはインド高級副官に就任[2][1]。1877年に少将(Major-General)に昇進し、オールダーショットの第1歩兵旅団の指揮官となる[2][1]。
その後、大英帝国植民地南アフリカに赴任し、1878年から1879年にかけて喜望峰総督(Lieutenant-Governor of the Cape of Good Hope)を務めた[2][1]。1878年10月には父の死によりチェルムスフォード男爵位を継承し、貴族院議員に列する[3]。1879年1月には英領ナタール植民地の高等弁務官サー・ヘンリー・バートル・フレアの命を受けてチェルムスフォード率いるイギリス軍がズールー王国へ侵攻した。しかしイサンドルワナの戦いで1600人もの戦死者を出して敗走。現地英軍は危機的状況に陥ったが、4月から5月にかけてサー・ガーネット・ウォルズリー将軍率いるイギリス本国からの援軍が到着。総指揮権はウォルズリーが握ることになったが、チェルムスフォードはその部下としてズールー王国侵攻の陣頭指揮を執った。7月までにズールー王国首都を陥落させ、国王セテワヨ・カムパンデを捕虜にすることに成功した[4][5]。
その後は名誉職に多く在職し、1884年から1889年にかけてはロンドン塔管理副長官、1898年から1900年にかけてはシャーウッド・フォレスターズ名誉連隊長、1900年から1905年にかけてはライフガーズ第2連隊名誉連隊長を務めた[2][1]。
階級は1882年に中将(Lieutenant general)、1888年に大将(General)に昇進している[2][1]。
人物
[編集]大英帝国最盛期の軍人としてカナダ、インド、エチオピア、南アフリカなど世界各地で軍務についた[6]。イギリス軍指揮官は怒りっぽい人が多いが、チェルムスフォードは控えめな人柄だったので異色の存在だったという[7]。
栄典
[編集]爵位
[編集]1878年10月5日に父の死により以下の爵位を継承した[2][1]。
- エセックス州におけるチェルムスフォードの第2代チェルムスフォード男爵 (2nd Baron Chelmsford, of Chelmsford in the County of Essex)
勲章
[編集]- 1868年8月14日、バス騎士団(勲章)コンパニオン(CB)[2]
- 1878年11月11日、バス騎士団(勲章)ナイト・コマンダー(KCB)[2]
- 1879年8月19日、バス騎士団(勲章)ナイト・グランド・クロス(GCB)[2]
- 1902年11月9日、ロイヤル・ヴィクトリア騎士団(勲章)ナイト・グランド・クロス(GCVO)[2]
家族
[編集]1867年にイギリス陸軍少将ジョン・ヒースの娘アドリア・ファニー・ヒース(1846年-1926年)と英領インドで結婚した。彼女との間に以下の6男を儲けた[1]。
- 長男フレデリック・ジョン・ネイピア・セシジャー (1868年-1933年) - 政治家。第3代チェルムスフォード男爵を継承。インド総督を務め、チェルムスフォード子爵に叙される
- 次男パーシー・マンスフィールド・セシジャー (1869年-1959年)
- 三男ウィルフリッド・ギルバート・セシジャー (1871年-1920年) - 外交官
- 四男ハロルド・ラムスデン・セシジャー (1872年)
- 五男エリック・リチャード・セシジャー (1874年-1961年) - 陸軍中佐
- 六男アルフレッド・サリバン・セシジャー (1880-1889)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m Heraldic Media Limited. “Chelmsford, Baron (UK, 1858)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Lundy, Darryl. “Frederick Augustus Thesiger, 2nd Baron Chelmsford of Chelmsford” (英語). thepeerage.com. 2016年1月29日閲覧。
- ^ UK Parliament. “Mr Frederick Thesiger” (英語). HANSARD 1803–2005. 2016年1月30日閲覧。
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 848-849.
- ^ モリス 2008, p. 243-246/252-254.
- ^ モリス 2008, p. 241-242.
- ^ モリス 2008, p. 242.
参考文献
[編集]- モリス, ジャン 著、椋田直子 訳『ヘブンズ・コマンド-大英帝国の興隆(下)-』講談社、2008年。ISBN 978-4062138918。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Chelmsford
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