フレッド・クハウルア
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ハワイ州オアフ島ホノルル |
生年月日 | 1953年2月23日 |
没年月日 | 2021年9月20日(68歳没) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 175 lb =約79.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1972年 |
初出場 |
MLB / 1977年8月2日 NPB / 1978年4月30日 |
最終出場 |
MLB / 1981年10月1日 NPB / 1978年9月24日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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フレッド・マヘレ・クハウルア(Fred Mahele Kuhaulua、1953年2月23日 - 2021年9月20日)は、アメリカ合衆国ハワイ州出身の元プロ野球選手(投手)。日本での登録名はフレッド。
来歴・人物
[編集]1977年にカリフォルニア・エンゼルスに昇格、3試合の登板にとどまったが3Aでは9勝5敗の成績をマークした。1978年に中日ドラゴンズに入団した。当時現役だった大相撲力士・高見山の従兄弟[1]ということで話題になった。
開幕直後に来日し二軍で初登板して白星を挙げたが、投球内容では首脳陣の期待に応えられず、一軍初登板は4月30日まで無かった[1]。威圧感に欠けるフォームで、スピード不足で二軍の投手コーチを務めていた権藤博からは「球威がない」と前途多難を匂わせていたが、一軍昇格後に一軍投手コーチだった稲尾和久の指導を受け、手先だけで投げていたフォームから体全体を活かしたフォームに改造。すると、投球内容が若干向上し、9月22日の対巨人戦で完投勝利をあげるなど、先発ローテーションに入って3勝を挙げた。しかし、翌年に向けて新外国人打者(ギャレット弟、ジョーンズ)を補強する方針のため、この年限りで解雇され退団した。
翌1979年から2年間サンディエゴ・パドレス傘下の3Aで過ごした後、1981年9月に昇格し、主に先発[2]として大リーグ復帰を果たした。10月1日のドジャース戦では8イニングを無失点に抑えてメジャー初勝利をあげた。この試合がメジャーでの最後の登板となり、翌年は再び3Aに戻り、この年限りで引退した。
球種・ストレート、スライダー、カーブ、シュート、決め球はフォーク。
温厚な性格で真面目で練習熱心な選手だった。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1977 | CAL | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 40 | 6.1 | 15 | 1 | 7 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 11 | 11 | 15.63 | 3.47 |
1978 | 中日 | 25 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 331 | 72.2 | 75 | 9 | 45 | 1 | 1 | 52 | 2 | 0 | 43 | 35 | 4.32 | 1.65 |
1981 | SDP | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 119 | 29.1 | 28 | 1 | 9 | 1 | 0 | 16 | 1 | 0 | 10 | 8 | 2.45 | 1.26 |
MLB:2年 | 8 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 159 | 35.2 | 43 | 2 | 16 | 1 | 0 | 19 | 3 | 0 | 21 | 19 | 4.79 | 1.65 | |
NPB:1年 | 25 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 331 | 72.2 | 75 | 9 | 45 | 1 | 1 | 52 | 2 | 0 | 43 | 35 | 4.32 | 1.65 |
記録
[編集]- NPB
- 初登板:1978年4月30日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回裏に佐野仙好から
- 初先発:1978年5月21日、対読売ジャイアンツ10回戦(後楽園球場)、5回4失点(自責点1)で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:1978年6月18日、対阪神タイガース13回戦(ナゴヤ球場)、6回1失点
- 初完投勝利:1978年9月22日、対読売ジャイアンツ24回戦(ナゴヤ球場)、9回1失点
- 初安打:1978年6月28日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、3回表に小林繁から
背番号
[編集]- 31 (1977年)
- 42 (1978年)
- 51 (1981年 - 同年途中)
- 41 (1978年途中 - 同年終了)
脚注
[編集]- ^ a b 【3月20日】1978年(昭53) “ヘビ球”投げる人気力士のいとこ 中日左腕投手緊急補強 ― Sponichi Annex 日めくりプロ野球 スポーツニッポン 2009年3月1日
- ^ スポニチの記事[1]では「中継ぎ」となっているが、該当年度の成績では5試合中4試合が先発登板(Game Started)のため「主に先発」と表記