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フレッド・カリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フレッド・カリー
フレッド・カリーの画像
1973年
プロフィール
リングネーム フレッド・カリー
フライング・フレッド・カリー
本名 フレッド・トーマス・コーリー・ジュニア
ニックネーム 空飛ぶ旋風児[1]
身長 180cm[2]
体重 91kg[2]
誕生日 (1943-06-12) 1943年6月12日(81歳)[3]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
コネチカット州の旗 コネチカット州
ハートフォード郡ハートフォード[3]
スポーツ歴 アメリカンフットボール[3]
トレーナー ブル・カリー[2]
デビュー 1960年代中盤[3]
引退 1980年代前半
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"フライング" フレッド・カリー"Flying" Fred Curry、本名:Fred Thomas Koury, Jr. 1943年6月12日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーコネチカット州ハートフォード出身。

"ワイルド" ブル・カリーの実子だが、野獣系の悪相ヒールだった父親とは対照的に、正統派の二枚目ベビーフェイスとして活動[1]。連発式ドロップキックなど "フライング" の異名通りの鮮やかな空中戦を得意とし、女性ファンの人気を集めた[1]

息子のフレッド・カリー・ジュニア("ザ・ロケット" フレッド・カリー)もプロレスラーとしてデビューしている[4][5]

来歴

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学生時代はアメリカンフットボールで活躍し、コネチカット大学ではチームのキャプテンを務めた[3]1960年代中盤にプロレス入りし、ダラスフォートワースなどテキサスの東部地区にて、当時ベビーフェイスに転向していたブル・カリーとの親子タッグで活動[6]1964年7月20日にはクルトとカールのフォン・ストロハイム兄弟を破り、テキサス版のNWAインターナショナル・タッグ王座を獲得した[2]

1960年代後半からブルとのタッグを解消し、各地を転戦。長年の主戦場となる五大湖地区では、1967年4月29日にビリー・レッド・ライオンと組んでボルコフ・ブラザーズ(ニコライ&ボリス・ボルコフ)から、10月14日にはダン・ミラーと組んでアル・コステロ&レイ・セント・クレアーから、デトロイト版のNWA世界タッグ王座をそれぞれ奪取している[7]1968年1月末にはTBS体制下の国際プロレスに来日、2月15日の滋賀県大津市大会にて、ダニー・ホッジのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦した[8]

古巣のテキサスでは1969年3月、ジョニー・バレンタインに負傷させられたダン・ミラーの後任として、フリッツ・フォン・エリックのパートナーに指名されNWAアメリカン・タッグ王者となっている[9]。シングルでも1972年8月2日、ハワイジン・キニスキーを破りNWAハワイ・ヘビー級王座を獲得、10月28日にザ・シークに敗れるまでタイトルを保持した[10]。同年はWWWFにも参戦しており、10月9日にワシントンD.C.にてジャック・ブリスコと組み、プロフェッサー・タナカ&ミスター・フジWWWF世界タッグ王座に挑戦している[11][12]。同年はブリスコと共に業界誌プロレスリング・イラストレーテッドの年間最高人気選手(Most Popular Wrestler of the Year)に選出されるなど[2][3]ベビーフェイスのスターとなって活躍した。

1970年代中盤も五大湖エリアを主戦場に、NWFでは1973年6月30日、ルイス・マルティネスと組んでNWF世界タッグ王座を獲得[13]NWAのデトロイト地区ではトニー・マリノをパートナーに、キラー・ブルックス&ベン・ジャスティス、クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツなどのチームとNWA世界タッグ王座を争った[7]。同王座は1974年11月にボボ・ブラジルとのコンビでも獲得しており、1975年にもブラジルの弟ハンク・ジェームスと組んでジ・アイランダーズから奪取するなど、通算9回にわたって戴冠した[7]

1979年に再びWWWFへ登場し、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでは3月26日の定期戦でビクター・リベラに勝利。アンドレ・ザ・ジャイアントイワン・プトスキーともタッグを組み、ジミージョニージェリーバリアント・ブラザーズバロン・シクルナなどと対戦した[11][14]

1980年6月28日、デトロイトのコボ・アリーナで行われたタッグチーム・トーナメントにドリー・ファンク・ジュニアと組んで出場。1回戦でレイ・キャンディ&ボブ・ホワイトを下し2回戦まで進むも、海外遠征中だったジャイアント馬場&ジャンボ鶴田に敗退[15]。この試合は『全日本プロレス中継』でも放送されたが、全日本プロレスへの来日は実現しなかった。

その後セミリタイアし、オハイオなど五大湖地区の試合に時折出場していた[6]。引退後は地元のコネチカットにて実業家に転身している[16]

得意技

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ドロップキック[1]
「フライング・フレッド」のニックネームの由来となった技。20連発で放ったこともあった[3]

獲得タイトル

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NWAビッグタイム・レスリング
NWAデトロイト
NWAミッドパシフィック・プロモーションズ
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回[10]
ナショナル・レスリング・フェデレーション
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ルイス・マルティネス)[13]

脚注

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  1. ^ a b c d 『THE WRESTLER BEST 1000』P303(1996年、日本スポーツ出版社
  2. ^ a b c d e f g Wrestler Profiles: Fred Curry”. Online World of Wrestling. 2013年8月16日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g Flyng Fred Curry”. The Currys' Official Website. 2013年8月16日閲覧。
  4. ^ Rocket Fred Curry”. The Currys' Official Website. 2013年8月16日閲覧。
  5. ^ Wrestler Profiles: Fred Curry Jr.”. Online World of Wrestling. 2013年8月16日閲覧。
  6. ^ a b Fred Curry Yearly Statistics”. Wrestlingdata.com. 2013年8月16日閲覧。
  7. ^ a b c d NWA World Tag Team Title [Detroit]”. Wrestling-titles.com. 2013年8月16日閲覧。
  8. ^ The IWE matches fought by Fred Curry in 1968”. Wrestlingdata.com. 2015年5月31日閲覧。
  9. ^ a b NWA American Tag Team Title”. Wrestling-titles.com. 2013年8月16日閲覧。
  10. ^ a b NWA Hawaii Heavyweight Title”. Wrestling-titles.com. 2013年8月16日閲覧。
  11. ^ a b Matches of Fred Curry”. Cagematch.net. 2013年8月16日閲覧。
  12. ^ WWE Yearly Results 1972”. The History of WWE. 2013年8月16日閲覧。
  13. ^ a b NWF World Tag Team Title”. Wrestling-titles.com. 2013年8月16日閲覧。
  14. ^ WWE Yearly Results 1979”. The History of WWE. 2013年8月16日閲覧。
  15. ^ 『Gスピリッツ Vol.36』P76(2015年、辰巳出版ISBN 4777814998
  16. ^ ブル・カリー”. ALAS, 廿軒家プロレス. 2013年8月16日閲覧。

外部リンク

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