フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・メクレンブルク
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・メクレンブルク Friedrich Wilhelm zu Mecklenburg | |
---|---|
称号 | メクレンブルク公 |
出生 |
1871年4月5日 シュヴェリーン |
死去 |
1897年9月22日(26歳没) クスハーフェン近郊、エルベ川河口部 |
家名 | メクレンブルク=シュヴェリーン家 |
父親 | メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世 |
母親 | マリー・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット |
フリードリヒ・ヴィルヘルム・アドルフ・ギュンター・ツー・メクレンブルク(Friedrich Wilhelm Adolf Günther Herzog zu Mecklenburg [-Schwerin], 1871年4月5日 - 1897年9月22日)は、ドイツの諸侯家門メクレンブルク家の一員で、ドイツ帝国の海軍軍人。
生涯
[編集]メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世とその3番目の妻であるシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯女マリーの間の第2子、長男として生まれた。父にとっては6番目の息子である。海軍軍人としての道を歩むことを期待され、ドレスデンのヴィツトゥム中等教育学校(Vitzthum-Gymnasium Dresden)に通った後、1888年に海軍士官学校生となった。
海軍少尉(Leutnant zur See)に任官した後、S-26型ボートの魚雷艇の乗組員となった。このボートは1897年9月22日朝の嵐の際、クスハーフェン港で停泊中に転覆事故を起こし、フリードリヒ・ヴィルヘルムは他の6人の乗組員たちとともに事故の犠牲者となった。
同じ1897年4月に腹違いの長兄であるフリードリヒ・フランツ3世大公が謎の死を遂げており、そのわずか半年後の事故だったこともあって、フリードリヒ・ヴィルヘルムの早世は深く悼まれた。キールでは、当時の海軍駐屯地だったパウルス教会(Pauluskirche am Niemannsweg)にメクレンブルク出身の彫刻家ルートヴィヒ・ブルノー(Ludwig Brunow)の手になるフリードリヒ・ヴィルヘルムの記念碑が設置された。
また実家のメクレンブルクでも、1899年にシュヴェリーン湖の畔にあるレピン城址(Reppiner Burg)の中に、迷子石を彫って造られたフリードリヒ・ヴィルヘルムの記念碑が置かれた。1907年、公共団体がレピン城址を整備して城跡公園を完成させた時、この公園には「ある未完の生涯に捧げられた、未完の城塞(eine unvollendete Burg für ein unvollendetes Leben)」という標語が掲げられた。
参考文献
[編集]- Hans von Dambrowski: Herzog Friedrich Wilhelm zu Mecklenburg: Lebensbild eines deutschen Seeoffiziers. Berlin: Paetel 1898
- Klaus-Ulrich Keubke, Ralf Mumm: Seemannstod eines Mecklenburger Herzogs 1897: Beitrag zur Kultur- und Marinegeschichte. Schwerin: APH 1999 (Schriften des Ateliers für Porträt- und Historienmalerei; Bd. 3) ISBN 3000049118
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・メクレンブルクに関するカテゴリがあります。