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フリシェス潟の海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリシェス潟の海戦
戦争七年戦争ポメラニア戦争
年月日1759年9月10日
場所スウェーデン領ポンメルンオーデル潟英語版
結果:スウェーデンの勝利
交戦勢力
プロイセン王国 プロイセン王国 スウェーデンの旗 スウェーデン王国
指導者・指揮官
プロイセン王国 フォン・ケラー大佐 スウェーデンの旗 カール・ルテンスパレ
スウェーデンの旗 ヴィルヘルム・カルペラン英語版
戦力
船13隻
兵士700
船28隻
兵士2,250
損害
死者70から80
捕虜600
船9隻拿捕または沈没
死者13
負傷14

フリシェス潟の海戦(フリシェスかたのかいせん、英語: Battle of Frisches Haff)、またはノイヴァルプの海戦(ノイヴァルプのかいせん、英語: Battle of Neuwarp)は七年戦争中の1759年9月10日スウェーデンプロイセン間でおきた海戦。戦闘はノイヴァルプ英語版ウーゼドム島の間のオーデル潟英語版ドイツ語: Oderhaff)でおきたが、戦闘の名前はオーデル潟の古称からつけられた[1][2]

カール・ルテンスパレ大佐とヴィルヘルム・カルペラン英語版が率いた船28隻と2,250人を含むスウェーデン艦隊はフォン・ケラー大佐率いる船13隻と700人しかいなかったプロイセン艦隊を撃破した[3]

戦闘の結果、プロイセン海軍は全滅してしまい、ウーゼドム島ヴォリン島を守るべき艦隊はもはやどこにもなく、スウェーデン軍はすぐに両島を占領した。

背景

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スウェーデンは開戦時点では親フランスのメッソナ党英語版が政府を支配しており、その指導者たちは対プロイセン戦争をポンメルンオーデル川口の奪回の好機と見た。メッソナ党党首のアンデルス・ヨハン・フォン・ヘップケン英語版男爵はウンゲルン=スターンベリ元帥(スウェーデン語: Ungern-Sternberg)率いるスウェーデン軍14,500人をスウェーデン領ポンメルンの首都ストラルスンドに派遣、オーデル河口のシュテッティンの占領を命令した。

スウェーデンは攻撃を仕掛けたがプロイセンのハンス・フォン・レーヴァルト英語版に撃退され、ウンゲルン=スターンベリはフォン・ローセン伯爵に更迭された。ローセンは攻撃せず、ストラルスンドで封鎖されたまま耐えたが、ロシアが西プロイセンに侵攻したことでレーヴァルトは1758年6月27日にポンメルンを離れた。ローセンもグスタフ・ダヴィド・ハミルトン英語版に更迭され、ハミルトンはレーヴァルトが離れた隙をついて攻勢に出た。レーヴァルトは相当数のプロイセン軍を連れてロシアに応戦したが、ポンメルンに留まったプロイセン軍も粘り、数多くの戦闘や小競り合いがおきたにもかかわらず、お互いに決定的な勝利をつかめないでいた。

プロイセンは状況の打開にシュテッティンで漁船や交通船を戦艦に改造して艦隊を編成し、スウェーデン海軍による陸軍の侵攻の支援を止めようとした。この準備を知ったスウェーデン海軍はプロイセン海軍の撃滅に出た。

経過

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1759年8月のはじめ、カール・ルテンスパレ率いるスウェーデン艦隊はオーデル潟へ向かい、ペーネミュンデ英語版の守備軍を突破して「小さな潟」(: Kleines Haff)と呼ばれる潟の西部に侵入した。8月22日にアンクラムでフォン・ケラーとの小競り合いに勝利した後、両軍は9月10日にノイヴァルプ英語版で再び遭遇した。

ヴィルヘルム・カルペラン率いるスウェーデン艦隊は4列の陣形で進み、砲撃の射程に入ると1列に並んだ。プロイセンのガリオット4隻、ガレー船4隻、砲艦5隻は応戦した。南から正体不明の船が現れたためスウェーデンのガレー船3隻と砲艦9隻が調査のために南へ向かい、戦闘に参加できなかったが、それでも4時間に渡った海戦はプロイセンの大敗に終わり、13隻のうち9隻が拿捕されるか沈没し、一方のスウェーデンは死者13と負傷14だけであった。

結果

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スウェーデンが勝利したことで制海権を確保、ヴォリン島の占領にも成功した。しかし、当初の目的であったシュテッティンはプロイセンに残されたままだった。プロイセンはめげずに艦隊を再建したためスウェーデンの勝利は短期間に終わり、さらにロシアが1762年に和約を結び、戦争から離脱してしまった。スウェーデンは独力でフリードリヒ2世の強力な陸軍に太刀打ちできず、結局1762年5月22日に原状回復を約するハンブルク条約を締結した。

脚注

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  1. ^ 「フリシェス潟」は現在では同じくシュチェチン湾にあるが別の潟英語版を指す。
  2. ^ Erhard Riemann, Alfred Schoenfeldt, Ulrich Tolksdorf, Reinhard Goltz, Akademie der Wissenschaften und der Literatur (Germany), Akademie der Wissenschaften und der Literatur, Mainz, Preussisches Wörterbuch: Deutsche Mundarten Ost- und Westpreussens, 6th edition, Wachholtz, 1974, p.595, ISBN 3-529-04611-6
  3. ^ Åselius, Gunnar (2003). Svenska slagfält. Wahlström & Widstrand. pp. 366—373. ISBN 91-46-21087-3

参考文献

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  • R.C. Anderson, Naval wars in the Baltic, Gilbert-Wood, London, 1910.
  • (フランス語) Vice-amiral E. von Mantey, Histoire de la marine allemande (1675-1926), Payot, Paris, 1930.

座標: 北緯53度48分16秒 東経14度08分25秒 / 北緯53.80444度 東経14.14028度 / 53.80444; 14.14028