フランチェスコ5世 (モデナ公)
フランチェスコ5世 Francesco V | |
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モデナ=レッジョ公 | |
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在位 | 1846年1月21日 - 1859年6月11日 |
出生 |
1819年6月1日 モデナ=レッジョ公国、モデナ |
死去 |
1875年11月20日(56歳没) オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン |
埋葬 | オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂 |
配偶者 | アーデルグンデ・フォン・バイエルン |
子女 | アンナ・ベアトリーチェ |
家名 | オーストリア=エステ家 |
父親 | フランチェスコ4世 |
母親 | マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア |
フランチェスコ5世(イタリア語: Francesco V、1819年6月1日 - 1875年11月20日)は、モデナ=レッジョ公(在位:1846年 - 1859年)。オーストリア=エステ大公、ハンガリー王子およびベーメン王子。フランチェスコ4世の長男。
全名はドイツ語でフランツ・フェルディナント・ゲミニアン(Franz Ferdinand Geminian)、イタリア語でフランチェスコ・フェルディナンド・ジェミニアーノ(Francesco Ferdinando Geminiano)。
概要
[編集]1819年6月1日、フランチェスコ4世とその妃であったサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の王女マリーア・ベアトリーチェの間に第二子としてモデナで生まれた。1846年、モデナ公位を継承した[1]。当時のモデナでは争乱が頻発しており、フランチェスコ5世は身を守るためにオーストリア帝国に駐留軍を求めたが、1848年革命で争乱がさらに大きくなり、3月20日に家族とともにマントヴァに逃亡した[1]。父と同じく政治に介入、自由主義と疑われた者を全員訴えた[1]。1859年、オーストリアがマジェンタの戦いで敗れると、フランチェスコ5世は軍を率いてサルデーニャ王国と戦おうとしたが、逆に公国を併合され、フランチェスコ5世はオーストリアに移住した[1]。
1875年、フランチェスコ5世はウィーンで死去した[1]。遺骨はウィーンのカプツィーナー教会にある皇帝納骨所(カイザーグルフト)に収められている。
唯一の実子アンナ・ベアトリーチェが早世したため、エステ家とハプスブルク=ロートリンゲン家の血を引く家系はフランチェスコ5世で絶え、オーストリア=エステ大公の称号と名目上のモデナ公位は遠縁のフランツ・フェルディナント大公に継承された。
子女
[編集]フランチェスコ5世は1823年3月19日にミュンヘンでバイエルン王ルートヴィヒ1世の王女アーデルグンデと結婚した。彼女との間には以下の一女をもうけた。
- アンナ・ベアトリーチェ・テレーザ・マリーア(1848年 - 1849年) - 夭折
脚注
[編集]- ^ a b c d e Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
フランチェスコ5世
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爵位・家督 | ||
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先代 フランチェスコ4世 |
モデナ=レッジョ公 1846年 - 1859年 |
リソルジメント |
王室の称号 | ||
先代 フランチェスコ4世 |
オーストリア=エステ大公 1846年 - 1875年 |
次代 フランツ・フェルディナント |
請求称号 | ||
追放 | — 名目上 — モデナ=レッジョ公 1859年 - 1875年 |
次代 フランツ・フェルディナント |
先代 メアリ3世/2世 |
ジャコバイトの王 1840年 - 1875年 |
次代 メアリ4世/3世 |