フランソワ (アンジュー公)
フランソワ・ド・フランス François de France | |
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アランソン公 アンジュー公 | |
フランソワのミニアチュール(1577年) ニコラス・ヒリアード作 | |
在位 |
アランソン公:1566年 - 1584年 アンジュー公:1576年 - 1584年 |
称号 |
エヴルー公 トゥーレーヌ公 ベリー公 |
出生 |
1555年3月18日 フランス王国、フォンテーヌブロー |
死去 |
1584年6月19日(29歳没) フランス王国、シャトー=ティエリ |
埋葬 | フランス王国、サン=ドニ大聖堂 |
家名 | ヴァロワ=アングレーム家 |
父親 | フランス王アンリ2世 |
母親 | カトリーヌ・ド・メディシス |
宗教 | ローマ・カトリック |
エルキュール・フランソワ・ド・フランス(フランス語: Hercule François de France、1555年3月18日 - 1584年6月19日)は、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、およびスペイン王妃エリザベート、ロレーヌ公妃クロード、ブルボン朝のアンリ4世妃マルグリットの弟である。1560年にエヴルー公、1566年にアランソン公、1576年にアンジュー公、トゥーレーヌ公、ベリー公に叙されたが、アランソン公の称号でしばしば呼ばれる。
生涯
[編集]長兄フランソワ2世以下、3人の兄は次々と若くして王位に就いては嗣子なしに早世しており、3番目の兄アンリ3世が1574年に即位した際には王位継承権者の筆頭(推定相続人)となったが、アンリ3世に先立って1584年に死去したため、成長した男子の兄弟のうち唯一王位に就かずじまいであった。アンリ3世は5年後の1589年に暗殺され、王家としてのヴァロワ家は断絶することとなる。
八十年戦争初期の指導者オラニエ公ウィレム1世はアンジュー公フランソワに対し、ネーデルラント連邦共和国の前身となるネーデルラント北部諸州連合の君主位に就くことを要請していた。
また、イングランド女王エリザベス1世との結婚の交渉が進められていたことがある。1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、 エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、「蛙 (frog)」の愛称をつけた[1]。エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている[2]。カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局この縁談は成立しなかった[3]。1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した[4]。ジョン・ダウランドのリュート曲「蛙のガリアルド」(Frog Galliard)のタイトルの蛙とは上述の仇名であり、この曲はアンジュー公フランソワとエリザベス女王の悲恋を題材にしている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Frieda, Leonie (2005), Catherine de Medici, London: Phoenix, ISBN 978-0-7538-2039-1.
- Somerset, Anne (2003), Elizabeth I. (1st Anchor Books ed.), London: Anchor Books, ISBN 0385721579
- クリストファー・ヒバート 著、山本史郎 訳『女王エリザベス〈下〉大国への道』原書房、1998年b。ISBN 978-4562031474。
- 石井美樹子『エリザベス―華麗なる孤独』中央公論新社、2009年。ISBN 978-4120040290。